驕Bロシアとでも比べて見るが好い。グレシア正教の寺院を沈滞のままに委《まか》せて、上辺《うわべ》を真綿にくるむようにして、そっとして置いて、黔首《けんしゅ》を愚《ぐ》にするとでも云いたい政治をしている。その愚にせられた黔首が少しでも目を醒《さ》ますと、極端な無政府主義者になる。だからツアアルは平服を著《き》た警察官が垣を結ったように立っている間でなくては歩かれないのである。一体宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師になる為めで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なように見える。しかし学問なぞをしない、智力の発展していない多数に不用なのである。学問をしたものには、それが有用になって来る。原来《がんらい》学問をしたものには、宗教家の謂《い》う「信仰」は無い。そう云う人、即《すなわ》ち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音《ふくいん》を尊敬しろと云っても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。そう云う人は危険思想家である。中には実際は危険思想家になっていながら、信仰のないのに信仰のある真似をしたり、
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