フ三百年祭の事を知らせてよこした時なんぞは、秀麿はハルナックをこの目覚ましい祭の中心人物として書いて、ウィルヘルム第二世とハルナックとの君臣の間柄は、人主が学者を信用し、学者が献身的態度を以《もっ》て学術界に貢献しながら、同時に君国の用をなすと云う方面から見ると、模範的だと云って、ハルナックが事業の根柢《こんてい》をはっきりさせる為めに、とうとう父テオドジウスの事にまで溯《さかのぼ》って、精《くわ》しく新教神学発展の跡を辿《たど》って述べていた。自分の専門だと云っている歴史の事に就いても、こんなに力を入れて書いてよこしたことはないのに、どうしてハルナックの事ばかりを、特別に言ってよこすのだろうと子爵は不審に思って、この手紙だけ念を入れて、度々読み返して見た。そしてその手紙の要点を掴《つか》まえようと努力した。手紙の内容を約《つづ》めて見れば、こうである。政治は多数を相手にした為事《しごと》である。それだから政治をするには、今でも多数を動かしている宗教に重きを置かなくてはならない。ドイツは内治の上では、全く宗教を異《こと》にしている北と南とを擣《つ》きくるめて、人心の帰嚮《きこう》を繰《あやつ》って行かなくてはならないし、外交の上でも、いかに勢力を失墜しているとは云え、まだ深い根柢を持っているロオマ法王を計算の外に置くことは出来ない。それだからドイツの政治は、旧教の南ドイツを逆《さから》わないように抑《おさ》えていて、北ドイツの新教の精神で、文化の進歩を謀《はか》って行かなくてはならない。それには君主が宗教上の、しっかりした基礎を持っていなくてはならない。その基礎が新教神学に置いてある。その新教神学を現に代表している学者はハルナックである。そう云う意味のある地位に置かれたハルナックが、少しでも政治の都合の好いように、神学上の意見を曲げているかと云うに、そんな事はしていない。君主もそんな事をさせようとはしていない。そこにドイツの強みがある。それでドイツは世界に羽をのして、息張《いば》っていることが出来る。それで今のような、社会民政党の跋扈《ばっこ》している時代になっても、ウィルヘルム第二世は護衛兵も連れずに、侍従武官と自動車に相乗をして、ぷっぷと喇叭《らっぱ》を吹かせてベルリン中を駈け歩いて、出し抜に展覧会を見物しに行ったり、店へ買物をしに行ったりすることが出来るのである。ロシアとでも比べて見るが好い。グレシア正教の寺院を沈滞のままに委《まか》せて、上辺《うわべ》を真綿にくるむようにして、そっとして置いて、黔首《けんしゅ》を愚《ぐ》にするとでも云いたい政治をしている。その愚にせられた黔首が少しでも目を醒《さ》ますと、極端な無政府主義者になる。だからツアアルは平服を著《き》た警察官が垣を結ったように立っている間でなくては歩かれないのである。一体宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師になる為めで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なように見える。しかし学問なぞをしない、智力の発展していない多数に不用なのである。学問をしたものには、それが有用になって来る。原来《がんらい》学問をしたものには、宗教家の謂《い》う「信仰」は無い。そう云う人、即《すなわ》ち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音《ふくいん》を尊敬しろと云っても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。そう云う人は危険思想家である。中には実際は危険思想家になっていながら、信仰のないのに信仰のある真似をしたり、宗教の必要を認めないのに、認めている真似をしている。実際この真似をしている人は随分多い。そこでドイツの新教神学のような、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが出来ていると、教育のあるものは、志さえあれば、専門家の綺麗に洗い上げた、滓《かす》のこびり付いていない教義をも覗《のぞ》いて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。そこで穏健な思想家が出来る。ドイツにはこう云う立脚地を有している人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいていると云うのは、ここにある。秀麿はこう云う意味で、ハルナックの人物を称讃《しょうさん》している。子爵にも手紙の趣意はおおよそ呑《の》み込めた。
 西洋事情や輿地誌略《よちしりゃく》の盛んに行われていた時代に人となって、翻訳書で当用を弁ずることが出来、華族仲間で口が利かれる程度に、自分を養成しただけの子爵は、精神上の事には、朱子《しゅし》の註《ちゅう》に拠《よ》って論語を講釈するのを聞いたより外、なんの智識もないのだが、頭の好い人なので、これを読んだ後に内々《ないない》自ら省《かえり》みて見た。倅《せがれ》の
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