こへ秀麿が蒼い顔をして出て来て、何か上《うわ》の空《そら》で言って、跡は黙り込んでしまう。こっちから何か話し掛けると、実《み》の入《い》っていないような、責《せめ》を塞《ふさ》ぐような返事を、詞《ことば》の調子だけ優しくしてする。なんだか、こっちの詞は、子供が銅像に吹矢を射掛けたように、皮膚から弾《はじ》き戻されてしまうような心持がする。それを見ると、切角青山博士の詞を基礎にして築き上げた楼閣《ろうかく》が、覚束《おぼつか》なくぐらついて来るので、奥さんは又心配をし出すのであった。
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秀麿は卒業後|直《ただち》に洋行した。秀麿と大した点数の懸隔もなくて、優等生として銀時計を頂戴した同科の新学士は、文部省から派遣せられる筈だのに、現にヨオロッパにいる一人が帰らなくては、経費が出ないので、それを待っているうちに、秀麿の方は当主の五条子爵が先へ立たせてしまった。子爵は財政が割合に豊かなので、嫡子《ちゃくし》に外国で学生並の生活をさせる位の事には、さ程困難を感ぜないからである。
洋行すると云うことになってから、余程元気附いて来た秀麿が、途中からよこした手紙も、ベルリンに著《つ》いてからのも、総《すべ》ての周囲の物に興味を持っていて書いたものらしく見えた。印度《インド》の港で魚《うお》のように波の底に潜《くぐ》って、銀銭を拾う黒ん坊の子供の事や、ポルトセエドで上陸して見たと云う、ステレオチイプな笑顔の女芸人が種々の楽器を奏する国際的団体の事や、マルセイユで始て西洋の町を散歩して、嘘と云うものを衝《つ》かぬ店で、掛値と云うもののない品物を買って、それを持って帰ろうとして、紳士がそんな物をぶら下げてお歩きにならなくても、こちらからお宿へ届けると云われ、頼んで置いて帰ってみると、品物が先へ届いていた事や、それからパリイに滞在していて、或る同族の若殿に案内せられてオペラを見に行った時、フォアイエエで立派な貴夫人が来て何《なん》か云うと、若殿がつっけんどんに、わたし共はフランス語は話しませんと云って置いて、自分が呆《あき》れた顔をしたのを見て女に聞えたかと思う程大きい声をして、「Tout《ツウ》 ce《シヨ》 qui《キイ》 brille《ブリユ》, n'est《ネエ》 |pas or《パアゾオル》」と云ったので、始てなる程と悟った事や、それからベルリンに著いた当時の印象を瑣細《ささい》な事まで書いてあって、子爵夫婦を面白がらせた。子爵は奥さんに三省堂の世界地図を一枚買って渡して、電報や手紙が来る度に、鉛筆で点を打ったり線を引いたりして、秀麿はここに著いたのだ、ここを通っているのだと言って聞かせた。
ヨオロッパではベルリンに三年いた。その三年目がエエリヒ・シュミット総長の下《もと》に、大学の三百年祭をする年に当ったので、秀麿も鍔《つば》の嵌《は》まった松明《たいまつ》を手に持って、松明行列の仲間に這入って、ベルリンの町を練って歩いた。大学にいる間、秀麿はこの期にはこれこれの講義を聴くと云うことを、精《くわ》しく子爵の所へ知らせてよこしたが、その中にはイタリア復興時代だとか、宗教革新の起原だとか云うような、歴史その物の講義と、史的研究の原理と云うような、抽象的な史学の講義とがあるかと思うと、民族心理学やら神話成立やらがある。プラグマチスムスの哲学史上の地位と云うのがある。或る助教授の受け持っているフリイドリヒ・ヘッベルと云う文芸史方面のものがある。ずっと飛び離れて、神学科の寺院史や教義史がある。学期ごとにこんな風で、専門の学問に手を出した事のない子爵には、どんな物だか見当の附かぬ学科さえあるが、とにかく随分|雑駁《ざっぱく》な学問のしようをしているらしいと云う事だけは判断が出来た。しかし子爵はそれを苦にもしない。息子を大学に入れたり、洋行をさせたりしたのは、何も専門の職業がさせたいからの事ではない。追って家督相続をさせた後に、恐多いが皇室の藩屏《はんぺい》になって、身分相応な働きをして行くのに、基礎になる見識があってくれれば好い。その為《た》めに普通教育より一段上の教育を受けさせて置こうとした。だから本人の気の向く学科を、勝手に選んでさせて置いて好いと思っているのであった。
ベルリンにいる間、秀麿が学者の噂《うわさ》をしてよこした中に、エエリヒ・シュミットの文才や弁説も度々|褒《ほ》めてあったが、それよりも神学者アドルフ・ハルナックの事業や勢力がどんなものだと云うことを、繰り返してお父うさんに書いてよこしたのが、どうも特別な意味のある事らしく、帰って顔を見て、土産話《みやげばなし》にするのが待ち遠いので、手紙でお父うさんに飲み込ませたいとでも云うような熱心が文章の間に見えていた。殊《こと》に大学
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