Jえている。そして思量の体操をする積りで、哲学の本なんぞを読み耽《ふけ》っているのである。お母あ様程には、秀麿の健康状態に就いて悲観していない父の子爵が、いつだったか食事の時息子を顧みて、「一肚皮《いちとひ》時宜《じぎ》に合わずかな」と云って、意味ありげに笑った。秀麿は例の笑を顔に湛《たた》えて、「僕は不平家ではありません」と答えた。どうもお父う様はこっちが極端な自由思想をでも持っていはしないかと疑っているらしい。それは誤解である。しかしさすが男親だけにお母あ様よりは、切実に少くもこっちの心理状態の一面を解していてくれるようだと、秀麿は思った。
秀麿は父の詞《ことば》を一つ思い出したのが機縁になって、今一つの父の詞を思い出した。それは又或る日食事をしている時の事で「どうも人間が猿から出来たなんぞと思っていられては困るからな」と云った。秀麿はぎくりとした。秀麿だって、ヘッケルのアントロポゲニイに連署して、それを自分の告白にしても好いとは思っていない。しかしお父う様のこの詞の奥には、こっちの思想と相容《あいい》れない何物かが潜んでいるらしい。まさかお父う様だって、草昧《そうまい》の世に一国民の造った神話を、そのまま歴史だと信じてはいられまいが、うかと神話が歴史でないと云うことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るように物質的思想が這入って来て、船を沈没させずには置かないと思っていられるのではあるまいか。そう思って知らず識《し》らず、頑冥《がんめい》な人物や、仮面を被《かむ》った思想家と同じ穴に陥いっていられるのではあるまいかと、秀麿は思った。
こう思うので、秀麿は父の誤解を打ち破ろうとして進むことを躊躇している。秀麿が為めには、神話が歴史でないと云うことを言明することは、良心の命ずるところである。それを言明しても、果物が堅実な核《さね》を蔵しているように、神話の包んでいる人生の重要な物は、保護して行かれると思っている。彼を承認して置いて、此《これ》を維持して行くのが、学者の務《つとめ》だと云うばかりではなく、人間の務だと思っている。
そこで秀麿は父と自分との間に、狭くて深い谷があるように感ずる。それと同時に、父が自分と話をする時、危険な物の這入っている疑のある箱の蓋《ふた》を、そっと開けて見ようとしては、その手を又引っ込めてしまうような態度に出るのを見て、歯痒《はがゆ》いようにも思い、又気の毒だから、いたわって、手を出させずに置かなくてはならないようにも思う。父が箱の蓋を取って見て、白昼に鬼を見て、毒でもなんでもない物を毒だと思って怖《おそ》れるよりは、箱の内容を疑わせて置くのが、まだしもの事かと思う。
秀麿のこう思うのも無理は無い。明敏な父の子爵は秀麿がハルナックの事を書いた手紙を見て、それに対する返信を控えて置いた後に、寝られぬ夜《よ》などには度々宗教問題を頭の中で繰り返して見た。そして思えば思う程、この問題は手の附けられぬものだと云う意見に傾いて、随《したが》ってそれに手を著けるのを危険だとみるようになった。そこでとにかく倅《せがれ》にそんな問題に深入をさせたくない。なろう事なら、倅の思想が他の方面に向くようにしたい。そう思うので、自分からは宗教問題の事などは決して言い出さない。そしてこの問題が倅の頭にどれだけの根を卸しているかとあやぶんで、窃《ひそか》に様子を覗《うかが》うようにしているのである。
秀麿と父との対話が、ヨオロッパから帰って、もう一年にもなるのに、とかく対陣している両軍が、双方から斥候《せっこう》を出して、その斥候が敵の影を認める度に、遠方から射撃して還《かえ》るように、はかばかしい衝突もせぬ代りに、平和に打ち明けることもなくているのは、こう云うわけである。
秀麿の銜《くわ》えている葉巻の白い灰が、だいぶ長くなって持っていたのが、とうとう折れて、運動椅子に倚《よ》り掛かっている秀麿のチョッキの上に、細い鱗《うろこ》のような破片を留《と》めて、絨緞《じゅうたん》の上に落ちて砕けた。今のように何もせずにいると、秀麿はいつも内には事業の圧迫と云うような物を受け、外には家庭の空気の或る緊張を覚えて、不快である。
秀麿は「又本を読むかな」と思った。兼ねて生涯の事業にしようと企てた本国の歴史を書くことは、どうも神話と歴史との限界をはっきりさせずには手が著けられない。寧《むし》ろ先《ま》ず神話の結成を学問上に綺麗に洗い上げて、それに伴う信仰を、教義史体にはっきり書き、その信仰を司祭的に取り扱った機関を寺院史体にはっきり書く方が好さそうだ。そうしたってプロテスタント教がその教義史と寺院史とで毀損《きそん》せられないと同じ事で、祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈《
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