ソょ》するらしく見えた。「それは舟の中でも色々考えてみましたが、どうも当分手が著《つ》けられそうもないのです。」こう云って、何か考えるような顔をしている。
「急ぐ事はない。お前のは売らなくてはならんと云うのでもなし、学位が欲しいと云うのでもないからな。」一旦《いったん》こうは云ったが、子爵は更に、「学位は貰っても悪くはないが」と言い足して笑った。
ここまで傍聴していた奥さんが、待ち兼ねたように、いろいろな話をし掛けると、秀麿は優しく受答をしていた。この時奥さんは、どうも秀麿の話は気乗がしていない、附合《つきあい》に物を言っているようだと云う第一印象を受けたのであった。
それで秀麿が座を立った跡で、奥さんが子爵に言った。「体は大層好くなりましたが、なんだかこう控え目に、考え考え物を言うようではございませんか。」
「それは大人《おとな》になったからだ。男と云うものは、奥さんのように口から出任せに物を言ってはいけないのだ。」
「まあ。」奥さんは目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。四十代が半分過ぎているのに、まだぱっちりした、可哀《かわい》らしい目をしている女である。
「おこってはいけない。」
「おこりなんかしませんわ。」と云って、奥さんはちょいと笑ったが、秀麿の返事より、この笑の方が附合らしかった。
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その時からもう一年近く立っている。久し振の新年も迎えた。秀麿は位階があるので、お父う様程忙しくはないが、幾分か儀式らしい事もしなくてはならない。新調させた礼服を著て、不精らしい顔をせずに、それを済ませた。「西洋のお正月はどんなだったえ」とお母あ様が問うと、秀麿は愛想好く笑う。「一向駄目ですね。学生は料理屋へ大晦日《おおみそか》の晩から行っていまして、ボオレと云って、シャンパンに葡萄酒《ぶどうしゅ》に砂糖に炭酸水と云うように、いろいろ交ぜて温めて、レモンを輪切にして入れた酒を拵《こしら》えて夜なかになるのを待っています。そして十二時の時計が鳴り始めると同時に、さあ新年だと云うので、その酒を注《つ》いだ杯《さかずき》をてんでんに持って、こつこつ打ち附けて、プロジット・ノイヤアルと大声で呼んで飲むのです。それからふざけながら町を歩いて帰ると、元日には寝ていて、午《ひる》まで起きはしません。町でも家《うち》
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