て精一ぱい兄きの注意を惹き起さうと致しました。もう大抵分かつた筈だと思ひますのに、兄きはどうしたのだか首を振つて、わたくしに同意しない様子で、やはり一しよう懸命に檣の根の鐶に噛り付いてゐます。力づくで兄きにその鐶を放させようといふことは所詮不可能でございます。その上最早少しも猶予すべき場合ではないと思ひました。そこでわたくしは無論霊の上の苦戦を致した上で、兄きは兄きの運命に任せることゝ致しまして体を繩で樽に縛り付けまして、急いで海に飛び込みました。」
「その結果は全く予期した通りでございました。御覧のとほりわたくしはこんな風にあなたに自分で自分のことをお話し申すのでございます。あなたはわたくしがそのとき危難を免かれたといふことをお疑ひはなさらないのでございませう。そしてその免かれた方法も、もうこれで委《くは》しく説明致したのでございますから、わたくしはこのお話を早く切り上げようと存じます。」
「わたくしが船から飛び込んでから、一時間ばかりも立つた時でございませう。さつきまでわたくしの乗つてゐた船は、遙か下の方で、忽然三度か四度か荒々しい廻転を致しまして、真逆様に混沌たるしぶきの中へ沈ん
前へ
次へ
全44ページ中41ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング