う懸命兄きの耳に口を寄せてどなつて見ても、一言《ひとこと》も向うへは聞えないのでございます。忽然兄きは頭を掉《ふ》つて、死人のやうな顔色になりました。そして右の手の示指《ひとさしゆび》を竪《た》てゝわたくしに見せるのです。それが『気を付けろ』といふのだらうとわたくしには思はれたのでございます。」
「初めにはどう思つて兄きがさうしたか分からなかつたのでございます。そのうちなんとも云はれない、恐ろしい考が浮んで参りました。わたくしは隠しから時計を出して見ました。止まつてゐます。月明りに透かしてその針の止まつてゐる所を見て、わたくしは涙をばら/\と飜《こぼ》して、その時計を海に投げ込んでしまひました。時計は七時に止まつてゐました。わたくし共は海の静な時を無駄に過してしまつて、渦巻は今真盛りになつてゐる時なのでございます。」
「一体船といふものは、細工が好く出来てゐて、道具が揃つてゐて、積荷が重過ぎるやうなことがなくて順風で走るときは、それに乗つてゐると波が船の下を後へ潜り抜けて行くやうに、思はれるものでございます。海に馴れない人が見ると、よくそれを不思議がるものでございます。船頭はさういふ風
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