せて、只|一言《ひとこと》『モスコエストロオム』と申したからでございます。」
「どんな人間だつて、わたくしのそのとき感じたやうな心持を、詞で言ひ現はすことは出来ますまい。丁度ひどい熱の発作のやうに、わたくしは頭のてつぺんから足の爪先まで、顫え上がりました。兄きがその一|言《ごん》で、何をわたくしに申したのだといふことが、わたくしには直ぐに分かつたからでございます。兄きの云つた一言は、風がわたくし共の船を押し流して、船が渦巻の方へ向いてゐるのだといふことでございます。」
「先刻もわたくしは申しましたが、モスコエの海峡を越すときには、わたくし共はいつでも渦巻よりずつと上の方を通るやうに致してをりました。仮令《たとひ》どんな海の穏かなときでも、渦巻に近寄らないやうにといふ用心だけは、少しも怠つたことはございません。それに今は恐ろしい暴風に吹かれて、舟が渦巻の方へ押し流されてゐるのでございます。その刹那にわたくしは思ひました。兎に角時間が一番渦巻の静な時にあたつてゐるのだから、多少希望がないでもないと思ひました。併しさう思つてしまふと、その考の馬鹿気てゐることを悟らずにはゐられませんでした。も
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