ふのだらうと思つたのでございます。そのときの船の走り加減といふものは妙でございました。まるで気泡の浮いてゐるのかなにかのやうに、船の底と水とが触れてゐないかと思ふやうに、飛ぶやうに走つてゐるのでございます。船の面柁《おもかぢ》の方の背後《うしろ》に、今まで船の浮んでゐた、別な海の世界が、高くなつて欹立《そばだ》つてゐるのでございます。その別な海の世界は、取柁の所と水平線との中間に立つてゐる、恐ろしい、きざ/\のある壁のやうに見えるのでございます。」
「こんな事を申すと、可笑《をか》しいやうでございますが、わたくし共はもう渦巻の※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あぎと》に這入り掛かつてゐますので、今まで渦巻の方へ向いて、船の走つてゐたときよりは、腹が据わつて、落付いて来たのでございます。もう助からないと諦めてしまひましたので、今までどうならうかどうならうかと思つた恐怖の念がなくなつたのでございますね。どうも絶望の極度に達しますと、神経といふものにも、もうこれより強く刺戟せられることは出来ないといふ程度があるものと見えまして、却て落着も出て参るのでございますね。」
「かう申すと、法螺を吹くやうでございますが、全く本当の事でございます。わたくしはこんなことを考へました。かうして死ぬるのは実に強気《がうぎ》な死にやうだと存じました。神のお定め下すつた、こんな運命に出逢つてゐて、自分一人の身の上の小利害なんぞを考へるのは、余り馬漉らしいことだと存じました。わたくしはなんでもさう思つたとき恥かしくなつて、顔を赧くしたかと存じます。」
「暫く致してわたくしは、一体この渦巻がどんなものだか知りたいと思ふ好奇心を起したのでございます。わたくしは自分の命を犠牲にして、この渦巻の深さを捜つて見たいと思ふ希望を、はつきり感じたのでございます。そこで、自分は今恐ろしい秘密を見る事が出来るのだが、それを帰つて行つて、岸の上に住んでゐる友達に話して聞かせることの出来ないのが、如何にも遺憾だと思ひました。今死ぬのだらうといふ人間の考としては、こんな考は無論不似合で可笑しいには違ひございません。跡で思つて見れば、渦巻の入口で、何遍も船がくる/\廻つたので、少し気が変になつてゐたかも知れません。」
「それにわたくしが気を落ち着けた原因が、今一つあるのでございます。これ迄うるさかつた風といふものが、今になつてはちつとも船に当らないのでございます。風はこゝまでは参りません。なぜといふにあなたも先刻御覧になつたやうに、渦巻の縁の波頭の帯は、あたりまへの海面よりは余程低いのでございます。あたりまへの海は高い、真黒な山の背の様に、背後《うしろ》に立つてゐるのでございます。あなた方のやうに、海でひどい暴風《あらし》なんぞに逢つたことのないお方は、風があたつて波のしぶきを被せられるので、どの位気が狂ふものだといふことを、御存じないだらうと存じます。波のしぶきに包まれて物を見ることも、物を聞くことも出来なくなりますと、半分窒息し掛かるやうな心持になりまして、何を考へようにも、何をしようにも、気力が無くなつてしまふものでございます。さういふうるさい心持が、このときあらかた無くなつてしまつたのでございますね。譬へて見ますると、今迄牢屋に入れて置いて、どういふ処分になるか知れなかつた罪人に、愈々死刑を宣告してしまふと、役人も多少その人を楽な目に逢はせてやるやうにしますが、まあ、あんなものでございますね。」
「わたくし共は波頭の帯の所を何遍廻つたか知りません。なんでも一時間位は走つてゐました。滑るやうにといふよりは、飛ぶやうにといひたい位な走り方でございました。そして段々渦巻の中の方へ寄つて来まして、次第に恐ろしい内側の縁の所に近寄るのでございます。」
「この間わたくしは檣の根に打つてある鐶を掴んで放さずにゐました。兄きはデツクの艫の方にゐまして、舵の台に縛り付けた、小さい水樽の虚《から》になつてゐたのに、噛り付いてゐたのでございます。その水樽は、船が最初に暴風に打つ附かつたとき、船の中の物がみな浚つて行かれたのに、たつた一つ残つてゐたのでございますね。」
「そこで渦巻の内側の縁に近寄つて来ましたとき、兄きはその樽から手を放してしまつて、行きなり来てわたくしの掴んでゐる鐶を掴むのです。それが二人で掴んでゐられる程大い鐶ではないのでございます。兄きは死にもの狂ひになつて、その鐶を自分で取らうとして、それに掴まつてゐるわたくしの手を放させるやうにするのでございます。兄きがこんなことをしましたとき程、わたくしは悲しい心持をしたことはございません。無論兄きは恐ろしさに気が狂つて為《し》たことだとは知つてゐましたが、それでもわたくしはひどく悲しく思ひました。」
「併しわたくしはその鐶を
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