う希望なんぞといふ夢を見てはゐられない筈なのでございます。仮令乗つてゐるこの船が、大砲の九十門も備へてゐる軍艦であつたにしろ、これが砕けずに済む筈はないのでございます。」
「その内に暴風の最初の勢ひが少し挫けて来たやうに思はれました。それとも船が真直ぐに前に押し流されるので、風の勢ひを前ほど感じないやうになつたのかも知れません。兎に角今まで風の勢ひで平らに押し付けられて、泡立つてゐた海は、山のやうに高くふくらんで来ました。空の摸様も変にかはつて来ました。見えてゐる限りの空の周囲《まはり》が、どの方角もぐるりと墨のやうに真黒になつてゐまして、丁度わたくし共の頭の上の所に、まんまるに穴があいてゐます。その穴の所は、これまでつひぞ見たことのない、明るい、光沢《つや》のある藍色になつてゐまして、その又真中の所に、満月が明るく照つてゐるのでございます。その月の光で、わたくし共の身の周囲は何もかもはつきりと見えてゐます。併しその月の見せてくれる光景が、まあ、どんなものだつたと思召します。」
「わたくしは一二度兄きにものを申さうと存じました。併しどういふわけか、物音が非常に強くなつてゐまして、一しよう懸命兄きの耳に口を寄せてどなつて見ても、一言《ひとこと》も向うへは聞えないのでございます。忽然兄きは頭を掉《ふ》つて、死人のやうな顔色になりました。そして右の手の示指《ひとさしゆび》を竪《た》てゝわたくしに見せるのです。それが『気を付けろ』といふのだらうとわたくしには思はれたのでございます。」
「初めにはどう思つて兄きがさうしたか分からなかつたのでございます。そのうちなんとも云はれない、恐ろしい考が浮んで参りました。わたくしは隠しから時計を出して見ました。止まつてゐます。月明りに透かしてその針の止まつてゐる所を見て、わたくしは涙をばら/\と飜《こぼ》して、その時計を海に投げ込んでしまひました。時計は七時に止まつてゐました。わたくし共は海の静な時を無駄に過してしまつて、渦巻は今真盛りになつてゐる時なのでございます。」
「一体船といふものは、細工が好く出来てゐて、道具が揃つてゐて、積荷が重過ぎるやうなことがなくて順風で走るときは、それに乗つてゐると波が船の下を後へ潜り抜けて行くやうに、思はれるものでございます。海に馴れない人が見ると、よくそれを不思議がるものでございます。船頭はさういふ風に船の行くとき、それを波に『乗る』と申します。これまではわたくし共はその波に乗つて参りました。所が、忽ち背後《うしろ》から恐ろしい大きな波が来ました。船を持ち上げました。次第に高く/\持ち上げて、天までも持つて行かれるかと思ふやうでございました。波といふものが、こんなに高く立つことがあるといふことは、わたくし共も、そのときまで知らなかつたのでございます。さて登り詰めたかと思ふと、急に船が滑るやうな沈んで行くやうな運動を為始《しはじ》めました。丁度夢で高い山から落ちる時のやうに、わたくしは眩暈《めまひ》が致して胸が悪くなつて来ました。併し波の絶頂から下り掛かつた時に、わたくしはその辺の様子を一目に見渡すことが出来ました。一目に見たばかりではございますが、見るだけのことは十分見ました。一秒時間にわたくしは自分達の此時の境遇をすつかり見て取つたのでございます。モスコエストロオムの渦巻は大約四分の一哩ほど前に見えてゐました。その渦巻がいつも見るのとはまるで違つてゐて、言つて見れば、そのときの渦巻と今日の渦巻との比例は、今日の渦巻と水車の輪に水を引く為めに掘つた水溜との比例位なものでございます。若し船の居所を知らずに、これからどうなるかといふことを思はずに、あれを見ましたなら、その目に見えてゐるものが何物だか、分からなかつたかも知れません。所が、それが分かつてゐたものでございますから、余り気味の悪さに、わたくしは目を瞑《つぶ》りました。目を瞑つたといふよりは、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》がひとりでに痙攣を起して閉ぢたといつた方が好いのでございます。」
「それから二分間も立つたかと思ひますと、波が軽くなつて船の周囲がしぶきで包まれてしまひました。そのとき船が急に取柁《とりかぢ》の方へ半分ほど廻つて、電《いなづま》のやうに早く、今までと変つた方角へ走り出しました。そのとき今までのどう/″\と鳴つてゐた水の音を打ち消すほど強く、しゆつしゆつといふやうな音が致しました。譬て見れば、蒸気の螺旋口《ねぢぐち》を千ばかりも一度に開けて、蒸気を出すやうな音なのでございます。わたくし共は渦巻を取り巻いてゐる波頭の帯の所に乗り掛かつたのでございます。そのときの考では次の一刹那には、今恐ろしい速度で走つてゐますので、よく見定めることの出来ない、あの漏斗の底に吸ひ込まれてしま
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