気味の悪い偉大な全体の印象が意識に登つた丈であつたのでございます。其内に少し気が落ち着いて来ましたので、わたくしは見るともなしに渦巻の底の方を覗いて見ました。丁度船が漏斗の壁に引つ掛かつてゐる工合が、底の方を覗いて見るに、なんの障礙《しやうがい》もないやうな向になつてゐたのでございます。船は竜骨の向に平らに走つてゐます。と申しますのは、船のデツクと水面とは并行してゐるのでございます。併し水面は下へ向いて四十五度以上の斜な角度を作つてゐます。そこで船は殆ど鉛直な位置に保たれて走つてゐるのでございます。その癖そんな工合に走つてゐる船の中で、わたくしが手と足とで釣合を取つてゐますのは、平面の上にゐるのと大した相違はないのでございます。多分廻転してゐる速度が非常に大きいからでございませう。」
「月は漏斗の底の様子を自分の光で好く照らして見ようとでも思ふらしく、さし込んでゐますが、どうもわたくしにはその底の所がはつきり見えませんのでございます。なぜかと申しますると、漏斗の底の所には霧が立つてゐて、それが何もかも包んでゐるのでございます。その霧の上に実に美しい虹が見えてをります。回教徒《ふい/\けうと》の信ずる所に寄りますると、この世からあの世へ行く唯一の道は、狭い、揺らめく橋だといふことでございますが、丁度その橋のやうに美しい虹が霧の上に横はつてゐるのでございます。この霧このしぶきは疑もなく、恐ろしい水の壁面が漏斗の底で衝突するので出来るのでございませう。併しその霧の中から、天に向かつて立ち昇る恐ろしい叫声は、どうして出来るのか、わたくしにも分かりませんのでございました。」
「最初に波頭の帯の所から、一息に沈んで行つたときは斜な壁の大分の幅を下りたのでございますが、それからはその最初の割には船が底の方へ下だつて行かないのでございます。船は竪に下だつて行くよりは寧ろ横に輪をかいてゐます。それも平等な運動ではなくて、目まぐろしい衝突をしながら横に走るのでございます。或るときは百尺ばかりも進みます。又或るときは渦巻の全体を一週します。そんな風に、ゆる/\とではございますが、次第々々に底の方へ近寄つて行くことだけは、はつきり知れてゐるのでございます。」
「わたくしはこの流れてゐる黒檀の壁の広い沙漠の上で、周囲を見廻しましたとき、この渦巻に吸ひ寄せられて動いてゐるものが、わたくし共の船
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