兄きと争ふやうな気は少しも持つてゐなかつたのでございます。わたくしはそのとき、もうどこにつかまつてゐても同じことだと思つてゐたのでございます。そこで鐶を兄きに掴ませてしまつて、わたくしはデツクの艫の方へ這つて行つて樽につかまりました。そんな風に兄きと入り代るのは存外|容易《やさ》しうございました。勿論船は、渦巻が大きく湧き立つてゐる為めに、大きく揺れてはゐましたが、兎に角船は竜骨の方向に、頗る滑らかにすべつて行くのでございますから。」
「わたくしが、漸《や》つと樽につかまつたと思ひますと、船は突然真逆様に渦巻の底の方へ引き入れられて行くやうに思はれました。わたくしは短い祈祷の詞を唱へまして、いよ/\これがおしまひだなと思ひました。」
「船が沈んで行くとき、わたくしはひどく気分が悪くなりましたので、無意識に今までより強く樽にしがみ付いて、目を瞑《ねむ》つてゐました。数秒間の間は、今死ぬるか今死ぬるかと待つてゐて、目を開かずにゐました。所が、どうしても体が水に漬かつて窒息するやうな様子が見えて来ませんのでございます。幾秒も幾秒も立ちます。わたくしは依然として生きてゐるのでございます。落ちて行くといふ感じが無くなつて船の運動が、さつき波頭の帯の所を走つてゐたときと同じやうになつたらしく感じました。只違つてゐるのは、今度は今までよりも縦の方向が勝つて走るのでございます。わたくしは胆《たん》を据ゑて目を開いて周囲《まはり》の様子を見ました。」
「その時の恐ろしかつた事、気味の悪かつた事、それから感嘆した事は、わたくしは生涯忘れることが出来ません。船は不思議な力で抑留せられたやうに、沈んで行かうとする半途で、恐ろしく大きい、限りなく深い漏斗の内面の中間に引つ掛かつてゐるのでございます。若しこの漏斗の壁が目の廻るほどの速度で、動いてゐなかつたら、この漏斗の壁は、磨き立つた黒檀の板で張つてあるかとも思はれさうな位平らなものでございます。その平らな壁面が気味の悪い、目映い光を反射してをります。それはさつきお話し申した空のまんまるい雲の穴から、満月の光が、黄金《こがね》を篩《ふる》ふやうにさして来て、真黒な壁を、上から下へ、一番下の底の所まで照してゐるからでございます。」
「初めはわたくしは気が変になつてゐて、委《くは》しく周囲の様子を観察することが出来なかつたのでございます。初めは只
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