に船の行くとき、それを波に『乗る』と申します。これまではわたくし共はその波に乗つて参りました。所が、忽ち背後《うしろ》から恐ろしい大きな波が来ました。船を持ち上げました。次第に高く/\持ち上げて、天までも持つて行かれるかと思ふやうでございました。波といふものが、こんなに高く立つことがあるといふことは、わたくし共も、そのときまで知らなかつたのでございます。さて登り詰めたかと思ふと、急に船が滑るやうな沈んで行くやうな運動を為始《しはじ》めました。丁度夢で高い山から落ちる時のやうに、わたくしは眩暈《めまひ》が致して胸が悪くなつて来ました。併し波の絶頂から下り掛かつた時に、わたくしはその辺の様子を一目に見渡すことが出来ました。一目に見たばかりではございますが、見るだけのことは十分見ました。一秒時間にわたくしは自分達の此時の境遇をすつかり見て取つたのでございます。モスコエストロオムの渦巻は大約四分の一哩ほど前に見えてゐました。その渦巻がいつも見るのとはまるで違つてゐて、言つて見れば、そのときの渦巻と今日の渦巻との比例は、今日の渦巻と水車の輪に水を引く為めに掘つた水溜との比例位なものでございます。若し船の居所を知らずに、これからどうなるかといふことを思はずに、あれを見ましたなら、その目に見えてゐるものが何物だか、分からなかつたかも知れません。所が、それが分かつてゐたものでございますから、余り気味の悪さに、わたくしは目を瞑《つぶ》りました。目を瞑つたといふよりは、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》がひとりでに痙攣を起して閉ぢたといつた方が好いのでございます。」
「それから二分間も立つたかと思ひますと、波が軽くなつて船の周囲がしぶきで包まれてしまひました。そのとき船が急に取柁《とりかぢ》の方へ半分ほど廻つて、電《いなづま》のやうに早く、今までと変つた方角へ走り出しました。そのとき今までのどう/″\と鳴つてゐた水の音を打ち消すほど強く、しゆつしゆつといふやうな音が致しました。譬て見れば、蒸気の螺旋口《ねぢぐち》を千ばかりも一度に開けて、蒸気を出すやうな音なのでございます。わたくし共は渦巻を取り巻いてゐる波頭の帯の所に乗り掛かつたのでございます。そのときの考では次の一刹那には、今恐ろしい速度で走つてゐますので、よく見定めることの出来ない、あの漏斗の底に吸ひ込まれてしま
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