こでそんな風に船脚が遅くなつたときは、あれを連れて来てゐたら、一しよに漕がせて、船脚を早めることも出来たのだらうにと思ひ思ひ致しました。そればかりではございません。向うに着いて漁を致すにも、子供が一しよに行つてゐれば、どんなに都合が好いか知れないのでございます。併しわたくし共は、自分達こそその漁場へ出掛けましたが、一度も子供等を連れて参つたことはございません。なぜと申しまするのに、兎に角その漁場に行くのは、一遍でも危険でないといふときはなかつたからでございます。」
「わたくしの只今お話を致さうと存じますることがあつてから、もう二三日で丁度三年目になるのでございます。千八百何十何年七月十日の事でございました。この所の漁民にあの日を覚えてゐないものはございますまい。開闢以来例しのない暴風《あらし》のあつた日でございますからね。その癖その日は午前一ぱい、それから午後に掛けても、始終穏かな西南の風が吹いてゐたのでございます。空は晴れて、日は照つてゐました。どんなに年功のある漁師でも、あの暴風ばかりは、始まつて来るまで知ることが出来なかつたのでございます。」
「わたくし共三人きやうだいは午後二時頃、いつもの漁場の群島の間に着きまして、船一ぱい魚を取りました。きやうだい達もわたくしも、どうもこんなに魚の取れることは今まで一度もなかつたと、不思議に思つてゐました。それからわたくしの時計で丁度七時に、錨を上げて帰らうと致しました。わたくし共の計算では、海峡の一番悪い所を八時に通る筈でございました。八時が一番海の静なときだと予測してゐたのでございます。」
「丁度好い風を受けて船を出してから、暫くの間は都合好く漕いで参ることが出来ました。危険な事があらうなんぞとは、夢にも思はなかつたのでございます。そんな事のありさうな徴候は一つもなかつたのでございます。」
「突然、妙な風が、ヘルセツゲンの上を越して、吹き卸して参りました。そんな風が吹くといふことは、それまで永年の間一度もなかつたのでございます。そこで、なぜといふことなしに、わたくしは少し不安に思ひ出しましたのでございます。わたくし共は風に向つて、漕いでゐましたが、どうも此様子では渦巻の影響を受けてゐる処を漕ぎ抜けるわけには行かなからうといふやうな心持がいたしました。わたくしは跡へ引き返す相談をしようと思つて、ふいと背後《うしろ》を振り
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