ムの中心の深さは、こんな尺度よりは余程深くなくてはならない。かういふのに別に証拠はいらない筈である。ヘルセツゲンの山の巓から渦巻の漏斗《じやうご》の底を、横に見下ろしたゞけでそれ丈の事は知れるのである。
 僕はヘルセツゲンの山の巓から、この吠えてゐるフレゲトン、あの古い言ひ伝へにある火の流れのやうなこの潮流を見下ろしたとき、覚えず愚直なヨナス・ラムス先生が、さも信用し難い事を書くらしい筆附きで、鯨や熊の話を書いた心持の、無邪気さ加減を想像して、笑ふまいと思つても、笑はずにはゐられないやうな心持がしたのである。僕の見た所では、仮令《たとひ》最も大きい戦闘艦でも、この恐ろしい引力の範囲内に這入つた以上は、丁度一片の鳥の羽が暴風《あらし》に吹きまくられるやうに、少しの抗抵をもすることなしに底へ引き入れられてしまつて、人も鼠も命を落さなくてはならないといふことが、知れ切つてゐるのである。
 この現象を説明しようと試みた人は色々ある。僕は嘗てその二三を読んで見て、成程さうもあらうかと思つたことがある。併し実際を見たときは、そんな説明が、どうも役に立たないやうに思つた。或る人はこんな風に説明してゐる。このマルストロオムの渦巻も、又フエルロエ群島の間にある、これより小さい三つの渦巻も、次のやうな原因で出来るのだといふのである。
「此《かく》の如き旋渦《せんくわ》を生ずる所以《ゆゑん》は他《た》ならず。稜立《かどだ》ちたる巌壁の間に押し込まれたる水は、潮の漲落に際して屈折せられ、瀑布の如き勢ひをなして急下す。その波濤の相触るゝによりて、この渦巻は生ずるなり。潮は上ぼること愈々高ければ、その下だるや愈々深し。これ渦巻の漏斗状を成す所以なり。此の如き旋渦を成す水の、驚くべき吸引力を有するは、器に水を盛りて、小さき旋渦を生ぜしめて試験するときは、明白なり。」
 右の文章はエンサイクロペヂア・ブリタンニカに出てゐる。又キルヘルその他の学者は、マルストロオムの中心に穴があつて、その穴は全地球を貫いてゐて、反対の側の穴は、どこか遠い世界の部分にあいてゐるだらうといふのである。或る学者はその穴がボスニア湾だとはつきり云つてゐる。
 これは少し子供らしい想像であるが、実況を見たとき僕には却てこの想像が尤もらしく思はれた。僕は連の男にこの考を話して見た所が、意外にもその男はかう云つた。成程諾威では一
前へ 次へ
全22ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング