》を断たむとす。嚢中《のうちゅう》の『マルク』七つ八つありしを、から籠《かご》の木《こ》の葉《は》の上に置きて与へ、驚きて何ともいはぬひまに、立去りしが、その面《おもて》、その目、いつまでも目に付きて消えず。ドレスデンにゆきて、画堂の額《がく》うつすべき許《ゆるし》を得て、ヱヌス、レダ、マドンナ、へレナ、いづれの図に向ひても、不思議や、すみれ売のかほばせ霧の如《ごと》く、われと画額との間に立ちて障礙《しょうげ》をなしつ。かくては所詮《しょせん》、我|業《わざ》の進まむこと覚束《おぼつか》なしと、旅店の二階に籠《こ》もりて、長椅子《ながいす》の覆革《おおいかわ》に穴あけむとせし頃もありしが、一朝《いっちょう》大勇猛心を奮《ふる》ひおこして、わがあらむ限《かぎり》の力をこめて、この花売の娘の姿を無窮《むきゅう》に伝へむと思ひたちぬ。さはあれどわが見し花うりの目、春潮を眺《なが》むる喜《よろこび》の色あるにあらず、暮雲を送る夢見心あるにあらず、伊太利《イタリア》古跡の間に立たせて、あたりに一群《ひとむれ》の白鳩《しろばと》飛ばせむこと、ふさはしからず。我空想はかの少女《おとめ》をラインの岸の巌根《いわね》にをらせて、手に一張《ひとはり》の琴を把《と》らせ、嗚咽《おえつ》の声を出《いだ》させむとおもひ定めにき。下《した》なる流にはわれ一葉《いちよう》の舟を泛《うか》べて、かなたへむきてもろ手高く挙げ、面《おもて》にかぎりなき愛を見せたり。舟のめぐりには数知られぬ、『ニックセン』、『ニュムフェン』などの形|波間《なみま》より出でて揶揄《やゆ》す。けふこのミュンヘンの府《ふ》に来て、しばし美術学校の『アトリエ』借らむとするも、行李《こり》の中、唯この一画藁《いちがこう》、これをおん身ら師友の間に議《はか》りて、成しはてむと願ふのみ。」
巨勢はわれ知らず話しいりて、かくいひ畢《おわ》りし時は、モンゴリア形《がた》の狭き目も光るばかりなりき。「いしくも語りけるかな、」と呼ぶもの二人三人《ふたりみたり》。エキステルは冷淡に笑ひて聞《きき》ゐたりしが、「汝たちもその図見にゆけ、一週がほどには巨勢君の『アトリエ』ととのふべきに」といひき。マリイは物語の半《なかば》より色をたがへて、目は巨勢が唇にのみ注ぎたりしが、手に持ちし杯《さかずき》さへ一たびは震ひたるやうなりき。巨勢は初《はじめ》このまとゐに入りし時、已《すで》に少女の我すみれうりに似たるに驚きしが、話に聞きほれて、こなたを見つめたるまなざし、あやまたずこれなりと思はれぬ。こも例の空想のしわざなりや否《いな》や。物語畢りしとき、少女は暫し巨勢を見やりて、「君はその後《のち》、再び花うりを見たまはざりしか、」と問ひぬ。巨勢は直《ただ》ちに答ふべき言葉を得ざるやうなりしが。「否。花売を見しその夕《ゆうべ》の汽車にてドレスデンを立ちぬ。されどなめなる言葉を咎《とが》め玉はずばきこえ侍《はべ》らむ。我すみれうりの子にもわが『ロオレライ』の画《え》にも、をりをりたがはず見えたまふはおん身なり。」
この群は声高く笑ひぬ。少女、「さては画額ならぬ我姿と、君との間にも、その花うりの子立てりと覚えたり。我を誰とかおもひ玉ふ。」起ちあがりて、真面目《まじめ》なりとも戯《たわぶれ》なりとも、知られぬやうなる声にて。「われはその菫花《すみれ》うりなり。君が情《なさけ》の報《むくい》はかくこそ。」少女は卓越《たくご》しに伸びあがりて、俯《うつむ》きゐたる巨勢が頭《かしら》を、ひら手にて抑へ、その額《ぬか》に接吻《せっぷん》しつ。
この騒ぎに少女が前なりし酒は覆《くつが》へりて、裳《もすそ》を浸《ひた》し、卓の上にこぼれたるは、蛇の如く這《は》ひて、人々の前へ流れよらむとす。巨勢は熱き手掌《たなぞこ》を、両耳の上におぼえ、驚く間もなく、またこれより熱き唇、額に触れたり。「我友に目を廻させたまふな。」とエキステル呼びぬ。人々は半ば椅子より立ちて「いみじき戯《たわぶれ》かな、」と一人がいへば、「われらは継子《ままこ》なるぞくやしき、」と外《ほか》の一人いひて笑ふを、よそなる卓よりも、皆興ありげにうち守《まも》りぬ。
少女が側《そば》に坐したりし一人は、「われをもすさめ玉はむや、」といひて、右手《めて》さしのべて少女が腰をかき抱きつ。少女は「さても礼儀知らずの継子どもかな、汝らにふさはしき接吻のしかたこそあれ。」と叫び、ふりほどきて突立ち、美しき目よりは稲妻《いなずま》出づと思ふばかり、しばし一座を睨《にら》みつ。巨勢は唯|呆《あき》れに呆れて見ゐたりしが、この時の少女が姿は、菫花うりにも似ず、「ロオレライ」にも似ず、さながら凱旋門上のバワリアなりと思はれぬ。
少女は誰《た》が飲みほしけむ珈琲碗に添へたりし「コップ」を取りて、中なる水を口に銜《ふく》むと見えしが、唯|一※[#「※」は「口へん+巽」、第4水準2−4−37、48−9]《ひとふき》。「継子よ、継子よ、汝ら誰《たれ》か美術の継子ならざる。フィレンチェ派学ぶはミケランジェロ、ヰンチイが幽霊、和蘭《オランダ》派学ぶはルウベンス、ファン・ヂイクが幽霊、我国のアルブレヒト・ドュウレル学びたりとも、アルブレヒト・ドュウレルが幽霊ならぬは稀《まれ》ならむ。会堂に掛けたる『スツヂイ』二つ三つ、値段《ねだん》好く売れたる暁《あかつき》には、われらは七星われらは十傑、われらは十二使徒と擅《ほしいまま》に見たてしてのわれぼめ。かかるえり屑《くず》にミネルワの唇いかで触れむや。わが冷たき接吻にて、満足せよ。」とぞ叫びける。
噴掛《ふきか》けし霧の下なるこの演説、巨勢は何事とも弁《わきま》へねど、時の絵画をいやしめたる、諷刺《ふうし》ならむとのみは推測《おしはか》りて、その面《おもて》を打仰ぐに、女神バワリアに似たりとおもひし威厳少しもくづれず、言畢《いいおわ》りて卓の上におきたりし手袋の酒に濡れたるを取りて、大股《おおまた》にあゆみて出でゆかむとす。
皆すさまじげなる気色《けしき》して、「狂人」と一人いへば、「近きに報《むくい》せでは已《や》まじ」と外の一人いふを、戸口にて振りかへりて。「遺恨に思ふべき事かは、月影にすかして見よ、額に血の迹《あと》はとどめじ。吹きかけしは水なれば。」
中
あやしき少女《おとめ》の去りてより、ほどなく人々あらけぬ。帰《かえ》り路《じ》にエキステルに問へば、「美術学校にて雛形《モデル》となる少女の一人にて、『フロイライン』ハンスルといふものなり。見たまひし如く奇怪なる振舞《ふるまい》するゆゑ、狂女なりともいひ、また外の雛形娘と違ひて、人に肌見せねば、かたはにやといふもあり。その履歴知るものなけれど、教《おしえ》ありて気象よの常ならず、※[#「※」は「さんずい+于」、第3水準1−86−49、49−12]《けが》れたる行《おこない》なければ、美術諸生の仲間には、喜びて友とするもの多し。善《よ》き首《こうべ》なることは見たまふ如し。」と答へぬ。巨勢《こせ》、「我画かくにもようあるべきものなり。『アトリエ』ととのはむ日には、来《こ》よと伝へたまへ。」エキステル、「心得たり。されど十三の花売娘にはあらず、裸体の研究、危《あやう》しとはおもはずや。」巨勢、「裸体の雛形せぬ人と君もいひしが。」エキステル、「現《げ》にいはれたり。されど男と接吻したるも、けふ始めて見き。」エキステルがこの言葉に、巨勢は赤うなりしが、街燈暗き「シルレル・モヌメント」のあたりなりしかば、友は見ざりけり。巨勢が「ホテル」の前にて、二人は袂《たもと》を分ちぬ。
一週ほど後《のち》の事なりき。エキステルが周旋にて、美術学校の「アトリエ」一間《ひとま》を巨勢に借されぬ。南に廊下ありて、北面の壁は硝子《ガラス》の大窓《おおまど》に半《なかば》を占められ、隣の間とのへだてには唯|帆木綿《ほもめん》の幌《とばり》あるのみ。頃はみな月半ばなれど、旅立ちし諸生多く、隣に人もあらず、業《わざ》妨ぐべき憂《うれい》なきを喜びぬ。巨勢は画額の架[#「架」の右に《だい》、左に《スタッファージュ》とルビ、50−11]の前に立ちて、今入りし少女に「ロオレライ」の画を指さし示して、「君に聞かれしはこれなり。面白げに笑ひたはぶれ玉ふときは、さしもおもはれねど、をりをり君がおも影の、ここなる未成の人物にいとふさはしきときあり。」
少女は高く笑ひて。「物忘《ものわすれ》したまふな。おん身が『ロオレライ』の本《もと》の雛形、すみれ売の子は我なりとは、先の夜も告げしものを。」かくいひしが俄《にわか》に色を正して。「おん身は我を信じたまはず、げにそれも無理ならず。世の人は皆我を狂女なりといへば、さおもひたまふならむ。」この声|戯《たわぶれ》とは聞えず。
巨勢は半信半疑したりしが、忍びかねて少女にいふ、「余りに久しくさいなみ玉ふな。今も我が額《ぬか》に燃ゆるは君が唇なり。はかなき戯とおもへば、しひて忘れむとせしこと、幾度《いくたび》か知らねど、迷《まよい》は遂に晴れず。あはれ君がまことの身の上、苦しからずは聞かせ玉へ。」
窓《まど》の下《もと》なる小机に、いま行李《こり》より出したる旧《ふる》き絵入新聞、遣《つか》ひさしたる油《あぶら》ゑの具《ぐ》の錫筒《すずづつ》、粗末なる烟管《キセル》にまだ巻烟草《まきタバコ》の端《はし》の残れるなど載せたるその片端に、巨勢はつら杖《づえ》つきたり。少女は前なる籐《とう》の椅子《いす》に腰かけて、語りいでぬ。
「まづ何事よりか申さむ。この学校にて雛形の鑑札受くるときも、ハンスルといふ名にて通したれど、そは我|真《まこと》の名にあらず。父はスタインバハとて、今の国王に愛《め》でられて、ひと時|栄《さか》えし画工なりき。わが十二の時、王宮の冬園[#「冬園」の右に《ふゆその》、左に《ヴィンテルガルテン》とルビ、51−12]に夜会ありて、二親みな招かれぬ。宴《うたげ》闌《たけなわ》なる頃、国王見えざりければ、人々驚きて、移植《うつしう》ゑし熱帯|草木《そうもく》いやが上に茂れる、硝子《ガラス》屋根の下、そこかここかと捜しもとめつ。園《その》の片隅にはタンダルヂニスが刻《きざ》める、ファウストと少女との名高き石像あり。わが父のそのあたりに来たりし時、胸|裂《さ》くるやうなる声して、『助けて、助けて』と叫ぶものあり。声をしるべに、黄金《こがね》の穹窿《まるてんじょう》おほひたる、『キオスク』(四阿屋《あずまや》)の戸口に立寄れば、周囲に茂れる椶櫚《しゅろ》の葉に、瓦斯燈《ガスとう》の光支へられたるが、濃き五色にて画きし、窓硝子を洩《も》りてさしこみ、薄暗くあやしげなる影をなしたる裡《うち》に、一人の女の逃げむとすまふを、ひかへたるは王なり。その女のおもて見し時の、父が心はいかなりけむ。かれは我母なりき。父はあまりの事に、しばしたゆたひしが、『許したまへ、陛下《へいか》』と叫びて、王を推倒《おしたお》しつ。そのひまに母は走りのきしが、不意を打たれて倒れし王は、起き上りて父に組付きぬ。肥《こ》えふとりて多力なる国王に、父はいかでか敵し得べき、組敷かれて、側《かたわら》なりし如露《じょろ》にてしたたか打たれぬ。この事知りて諌《いさ》めし、内閣の秘書官チイグレルは、ノイシュワンスタインなる塔に押籠《おしこ》めらるるはずなりしが、救ふ人ありて助けられき。われはその夜家にありて、二親の帰るを待ちしに、下女《はしため》来て父母帰り玉ひぬといふ。喜びて出迎ふれば、父|舁《か》かれて帰り、母は我を抱きて泣きぬ。」
少女は暫《しば》らく黙しつ。けさより曇りたる空は、雨になりて、をりをり窓を打つ雫《しずく》、はらはらと音す。巨勢いふ。「王の狂人となりて、スタルンベルヒの湖に近き、ベルヒといふ城に遷《うつ》され玉ひしことは、きのふ新聞にて読みしが、さてはその頃よりかかる事ありしか。」
少女は語を継《つ》ぎて。「王の繁華の地を嫌ひて、鄙《ひな》に住まひ、昼寝ねて夜起きたまふは、久
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