たりまで来し頃、そこに休みゐたる大学々生らしき男の連れたる、英吉利種《イギリスだね》の大狗《おおいぬ》、いままで腹這《はらば》ひてゐたりしが、身を起して、背をくぼめ、四足《よつあし》を伸ばし、栗箱に鼻さし入れつ。それと見て、童の払ひのけむとするに、驚きたる狗、あとに附きて来し女の子に突当れば、『あなや、』とおびえて、手に持ちし目籠とり落したり。茎《くき》に錫紙《すずがみ》巻きたる、美しきすみれの花束、きらきらと光りて、よもに散りぼふを、好《よ》き物得つと彼《かの》狗、踏みにじりては、※[#「※」は「口へん+銜」、第4水準2−4−42、44−11]《くわ》へて引きちぎりなどす。ゆかは暖炉《だんろ》の温《ぬく》まりにて解けたる、靴の雪にぬれたれば、あたりの人々、かれ笑ひ、これ罵《ののし》るひまに、落花狼藉《らっかろうぜき》、なごりなく泥土に委《ゆだ》ねたり。栗うりの童は、逸足《いちあし》出《いだ》して逃去り、学生らしき男は、欠《あく》びしつつ狗を叱《しっ》し、女の子は呆《あき》れて打守《うちまも》りたり。この菫花うりの忍びて泣かぬは、うきになれて涙の泉|涸《か》れたりしか、さらずは驚き惑《まど》ひて、一日の生計《たつき》、これがために已《や》まむとまでは想到《おもいいた》らざりしか。しばしありて、女の子は砕《くだ》けのこりたる花束二つ三つ、力なげに拾はむとするとき、帳場にゐる女の知らせに、ここの主人《あるじ》出でぬ。赤がほにて、腹突きいだしたる男の、白き前垂したるなり。太き拳《こぶし》を腰にあてて、花売りの子を暫し睨《にら》み、『わが店にては、暖簾師[#「暖簾師」の右側に《のれんし》、左側に《ハウジイレル》とルビ、45−5]めいたるあきなひ、せさせぬが定《さだめ》なり。疾《と》くゆきね。』とわめきぬ。女の子は唯《ただ》言葉なく出でゆくを、満堂の百眼《ひゃくまなこ》、一滴《ひとしずく》の涙なく見送りぬ。」
 「われは珈琲代の白銅貨を、帳場の石板の上に擲《な》げ、外套《がいとう》取りて出でて見しに、花売の子は、ひとりさめさめと泣きてゆくを、呼べども顧《かえり》みず。追付きて、『いかに、善《よ》き子、菫花のしろ取らせむ、』といふを聞きて、始めて仰見《あおぎみ》つ。そのおもての美しさ、濃き藍《あい》いろの目には、そこひ知らぬ憂《うれい》ありて、一たび顧みるときは人の腸《はらわた》を断たむとす。嚢中《のうちゅう》の『マルク』七つ八つありしを、から籠《かご》の木《こ》の葉《は》の上に置きて与へ、驚きて何ともいはぬひまに、立去りしが、その面《おもて》、その目、いつまでも目に付きて消えず。ドレスデンにゆきて、画堂の額《がく》うつすべき許《ゆるし》を得て、ヱヌス、レダ、マドンナ、へレナ、いづれの図に向ひても、不思議や、すみれ売のかほばせ霧の如《ごと》く、われと画額との間に立ちて障礙《しょうげ》をなしつ。かくては所詮《しょせん》、我|業《わざ》の進まむこと覚束《おぼつか》なしと、旅店の二階に籠《こ》もりて、長椅子《ながいす》の覆革《おおいかわ》に穴あけむとせし頃もありしが、一朝《いっちょう》大勇猛心を奮《ふる》ひおこして、わがあらむ限《かぎり》の力をこめて、この花売の娘の姿を無窮《むきゅう》に伝へむと思ひたちぬ。さはあれどわが見し花うりの目、春潮を眺《なが》むる喜《よろこび》の色あるにあらず、暮雲を送る夢見心あるにあらず、伊太利《イタリア》古跡の間に立たせて、あたりに一群《ひとむれ》の白鳩《しろばと》飛ばせむこと、ふさはしからず。我空想はかの少女《おとめ》をラインの岸の巌根《いわね》にをらせて、手に一張《ひとはり》の琴を把《と》らせ、嗚咽《おえつ》の声を出《いだ》させむとおもひ定めにき。下《した》なる流にはわれ一葉《いちよう》の舟を泛《うか》べて、かなたへむきてもろ手高く挙げ、面《おもて》にかぎりなき愛を見せたり。舟のめぐりには数知られぬ、『ニックセン』、『ニュムフェン』などの形|波間《なみま》より出でて揶揄《やゆ》す。けふこのミュンヘンの府《ふ》に来て、しばし美術学校の『アトリエ』借らむとするも、行李《こり》の中、唯この一画藁《いちがこう》、これをおん身ら師友の間に議《はか》りて、成しはてむと願ふのみ。」
 巨勢はわれ知らず話しいりて、かくいひ畢《おわ》りし時は、モンゴリア形《がた》の狭き目も光るばかりなりき。「いしくも語りけるかな、」と呼ぶもの二人三人《ふたりみたり》。エキステルは冷淡に笑ひて聞《きき》ゐたりしが、「汝たちもその図見にゆけ、一週がほどには巨勢君の『アトリエ』ととのふべきに」といひき。マリイは物語の半《なかば》より色をたがへて、目は巨勢が唇にのみ注ぎたりしが、手に持ちし杯《さかずき》さへ一たびは震ひたるやうなりき。巨勢は初《はじめ》
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