このまとゐに入りし時、已《すで》に少女の我すみれうりに似たるに驚きしが、話に聞きほれて、こなたを見つめたるまなざし、あやまたずこれなりと思はれぬ。こも例の空想のしわざなりや否《いな》や。物語畢りしとき、少女は暫し巨勢を見やりて、「君はその後《のち》、再び花うりを見たまはざりしか、」と問ひぬ。巨勢は直《ただ》ちに答ふべき言葉を得ざるやうなりしが。「否。花売を見しその夕《ゆうべ》の汽車にてドレスデンを立ちぬ。されどなめなる言葉を咎《とが》め玉はずばきこえ侍《はべ》らむ。我すみれうりの子にもわが『ロオレライ』の画《え》にも、をりをりたがはず見えたまふはおん身なり。」
 この群は声高く笑ひぬ。少女、「さては画額ならぬ我姿と、君との間にも、その花うりの子立てりと覚えたり。我を誰とかおもひ玉ふ。」起ちあがりて、真面目《まじめ》なりとも戯《たわぶれ》なりとも、知られぬやうなる声にて。「われはその菫花《すみれ》うりなり。君が情《なさけ》の報《むくい》はかくこそ。」少女は卓越《たくご》しに伸びあがりて、俯《うつむ》きゐたる巨勢が頭《かしら》を、ひら手にて抑へ、その額《ぬか》に接吻《せっぷん》しつ。
 この騒ぎに少女が前なりし酒は覆《くつが》へりて、裳《もすそ》を浸《ひた》し、卓の上にこぼれたるは、蛇の如く這《は》ひて、人々の前へ流れよらむとす。巨勢は熱き手掌《たなぞこ》を、両耳の上におぼえ、驚く間もなく、またこれより熱き唇、額に触れたり。「我友に目を廻させたまふな。」とエキステル呼びぬ。人々は半ば椅子より立ちて「いみじき戯《たわぶれ》かな、」と一人がいへば、「われらは継子《ままこ》なるぞくやしき、」と外《ほか》の一人いひて笑ふを、よそなる卓よりも、皆興ありげにうち守《まも》りぬ。
 少女が側《そば》に坐したりし一人は、「われをもすさめ玉はむや、」といひて、右手《めて》さしのべて少女が腰をかき抱きつ。少女は「さても礼儀知らずの継子どもかな、汝らにふさはしき接吻のしかたこそあれ。」と叫び、ふりほどきて突立ち、美しき目よりは稲妻《いなずま》出づと思ふばかり、しばし一座を睨《にら》みつ。巨勢は唯|呆《あき》れに呆れて見ゐたりしが、この時の少女が姿は、菫花うりにも似ず、「ロオレライ」にも似ず、さながら凱旋門上のバワリアなりと思はれぬ。
 少女は誰《た》が飲みほしけむ珈琲碗に添へたりし「コップ」を取りて、中なる水を口に銜《ふく》むと見えしが、唯|一※[#「※」は「口へん+巽」、第4水準2−4−37、48−9]《ひとふき》。「継子よ、継子よ、汝ら誰《たれ》か美術の継子ならざる。フィレンチェ派学ぶはミケランジェロ、ヰンチイが幽霊、和蘭《オランダ》派学ぶはルウベンス、ファン・ヂイクが幽霊、我国のアルブレヒト・ドュウレル学びたりとも、アルブレヒト・ドュウレルが幽霊ならぬは稀《まれ》ならむ。会堂に掛けたる『スツヂイ』二つ三つ、値段《ねだん》好く売れたる暁《あかつき》には、われらは七星われらは十傑、われらは十二使徒と擅《ほしいまま》に見たてしてのわれぼめ。かかるえり屑《くず》にミネルワの唇いかで触れむや。わが冷たき接吻にて、満足せよ。」とぞ叫びける。
 噴掛《ふきか》けし霧の下なるこの演説、巨勢は何事とも弁《わきま》へねど、時の絵画をいやしめたる、諷刺《ふうし》ならむとのみは推測《おしはか》りて、その面《おもて》を打仰ぐに、女神バワリアに似たりとおもひし威厳少しもくづれず、言畢《いいおわ》りて卓の上におきたりし手袋の酒に濡れたるを取りて、大股《おおまた》にあゆみて出でゆかむとす。
 皆すさまじげなる気色《けしき》して、「狂人」と一人いへば、「近きに報《むくい》せでは已《や》まじ」と外の一人いふを、戸口にて振りかへりて。「遺恨に思ふべき事かは、月影にすかして見よ、額に血の迹《あと》はとどめじ。吹きかけしは水なれば。」


     中

 あやしき少女《おとめ》の去りてより、ほどなく人々あらけぬ。帰《かえ》り路《じ》にエキステルに問へば、「美術学校にて雛形《モデル》となる少女の一人にて、『フロイライン』ハンスルといふものなり。見たまひし如く奇怪なる振舞《ふるまい》するゆゑ、狂女なりともいひ、また外の雛形娘と違ひて、人に肌見せねば、かたはにやといふもあり。その履歴知るものなけれど、教《おしえ》ありて気象よの常ならず、※[#「※」は「さんずい+于」、第3水準1−86−49、49−12]《けが》れたる行《おこない》なければ、美術諸生の仲間には、喜びて友とするもの多し。善《よ》き首《こうべ》なることは見たまふ如し。」と答へぬ。巨勢《こせ》、「我画かくにもようあるべきものなり。『アトリエ』ととのはむ日には、来《こ》よと伝へたまへ。」エキステル、「心得たり。されど十三の花売娘にはあ
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