ず》かむとしつ。少女はつと立ちて「この部屋の暑さよ。はや学校の門もささるる頃なるべきに、雨も晴れたり。おん身とならば、おそろしきこともなし。共にスタルンベルヒへ往《ゆ》き玉はずや。」と側《そば》なる帽《ぼう》取りて戴《いただ》きつ。そのさま巨勢が共に行くべきを、つゆ疑はずと覚《おぼ》し。巨勢は唯《ただ》母に引かるる穉子《おさなご》の如く従ひゆきぬ。
 門前にて馬車|雇《やと》ひて走らするに、ほどなく停車場に来ぬ。けふは日曜なれど、天気|悪《あ》しければにや、近郷《きんごう》よりかへる人も多からで、ここはいと静《しずか》なり。新聞の号外売る婦人あり。買ひて見れば、国王ベルヒの城に遷《うつ》りて、容体《ようだい》穏なれば、侍医グッデンも護衛を弛《ゆる》めさせきとなり。※[#「※」は「汽の中に小さい米」、第4水準2−79−6、58−3]車《きしゃ》中には湖水の畔《ほとり》にあつさ避くる人の、物買ひに府に出でし帰るさなるが多し。王の噂《うわさ》いと喧《かまびす》し。「まだホオヘンシュワンガウの城にゐたまひし時には似ず、心|鎮《しず》まりたるやうなり。ベルヒに遷さるる途中、ゼエスハウプトにて水求めて飲みたまひしが、近きわたりなりし漁師《りょうし》らを見て、やさしく頷《うなず》きなどしたまひぬ。」と訛《だ》みたることばにて語るは、かひもの籠《かご》手にさげたる老女《おうな》なりき。
 車走ること一時間、スタルンベルヒに着きしは夕《ゆうべ》の五時なり。かちより往《ゆ》きてやうやう一日ほどの処なれど、はやアルペン山の近さを、唯何となく覚えて、このくもらはしき空の気色《けしき》にも、胸開きて息せらる。車のあちこちと廻来《まわりこ》し、丘陵の忽《たちまち》開けたる処に、ひろびろと見ゆるは湖水なり。停車場は西南の隅にありて、東岸なる林木、漁村はゆふ霧に包まれてほのかに認めらるれど、山に近き南の方は一望きはみなし。
 案内《あない》知りたる少女に引かれて、巨勢は右手《めて》なる石段をのぼりて見るに、ここは「バワリア」の庭《ホオフ》といふ「ホテル」の前にて、屋根なき所に石卓《いしづくえ》、椅子《いす》など並べたるが、けふは雨後なればしめじめと人げ少し。給仕する僕《しもべ》の黒き上衣《うわぎ》に、白の前掛したるが、何事をかつぶやきつつも、卓に倒しかけたる椅子を、引起して拭《ぬぐ》ひゐたり。ふと
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