らず、裸体の研究、危《あやう》しとはおもはずや。」巨勢、「裸体の雛形せぬ人と君もいひしが。」エキステル、「現《げ》にいはれたり。されど男と接吻したるも、けふ始めて見き。」エキステルがこの言葉に、巨勢は赤うなりしが、街燈暗き「シルレル・モヌメント」のあたりなりしかば、友は見ざりけり。巨勢が「ホテル」の前にて、二人は袂《たもと》を分ちぬ。
一週ほど後《のち》の事なりき。エキステルが周旋にて、美術学校の「アトリエ」一間《ひとま》を巨勢に借されぬ。南に廊下ありて、北面の壁は硝子《ガラス》の大窓《おおまど》に半《なかば》を占められ、隣の間とのへだてには唯|帆木綿《ほもめん》の幌《とばり》あるのみ。頃はみな月半ばなれど、旅立ちし諸生多く、隣に人もあらず、業《わざ》妨ぐべき憂《うれい》なきを喜びぬ。巨勢は画額の架[#「架」の右に《だい》、左に《スタッファージュ》とルビ、50−11]の前に立ちて、今入りし少女に「ロオレライ」の画を指さし示して、「君に聞かれしはこれなり。面白げに笑ひたはぶれ玉ふときは、さしもおもはれねど、をりをり君がおも影の、ここなる未成の人物にいとふさはしきときあり。」
少女は高く笑ひて。「物忘《ものわすれ》したまふな。おん身が『ロオレライ』の本《もと》の雛形、すみれ売の子は我なりとは、先の夜も告げしものを。」かくいひしが俄《にわか》に色を正して。「おん身は我を信じたまはず、げにそれも無理ならず。世の人は皆我を狂女なりといへば、さおもひたまふならむ。」この声|戯《たわぶれ》とは聞えず。
巨勢は半信半疑したりしが、忍びかねて少女にいふ、「余りに久しくさいなみ玉ふな。今も我が額《ぬか》に燃ゆるは君が唇なり。はかなき戯とおもへば、しひて忘れむとせしこと、幾度《いくたび》か知らねど、迷《まよい》は遂に晴れず。あはれ君がまことの身の上、苦しからずは聞かせ玉へ。」
窓《まど》の下《もと》なる小机に、いま行李《こり》より出したる旧《ふる》き絵入新聞、遣《つか》ひさしたる油《あぶら》ゑの具《ぐ》の錫筒《すずづつ》、粗末なる烟管《キセル》にまだ巻烟草《まきタバコ》の端《はし》の残れるなど載せたるその片端に、巨勢はつら杖《づえ》つきたり。少女は前なる籐《とう》の椅子《いす》に腰かけて、語りいでぬ。
「まづ何事よりか申さむ。この学校にて雛形の鑑札受くるときも、ハンスルといふ名
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