を取りて、中なる水を口に銜《ふく》むと見えしが、唯|一※[#「※」は「口へん+巽」、第4水準2−4−37、48−9]《ひとふき》。「継子よ、継子よ、汝ら誰《たれ》か美術の継子ならざる。フィレンチェ派学ぶはミケランジェロ、ヰンチイが幽霊、和蘭《オランダ》派学ぶはルウベンス、ファン・ヂイクが幽霊、我国のアルブレヒト・ドュウレル学びたりとも、アルブレヒト・ドュウレルが幽霊ならぬは稀《まれ》ならむ。会堂に掛けたる『スツヂイ』二つ三つ、値段《ねだん》好く売れたる暁《あかつき》には、われらは七星われらは十傑、われらは十二使徒と擅《ほしいまま》に見たてしてのわれぼめ。かかるえり屑《くず》にミネルワの唇いかで触れむや。わが冷たき接吻にて、満足せよ。」とぞ叫びける。
噴掛《ふきか》けし霧の下なるこの演説、巨勢は何事とも弁《わきま》へねど、時の絵画をいやしめたる、諷刺《ふうし》ならむとのみは推測《おしはか》りて、その面《おもて》を打仰ぐに、女神バワリアに似たりとおもひし威厳少しもくづれず、言畢《いいおわ》りて卓の上におきたりし手袋の酒に濡れたるを取りて、大股《おおまた》にあゆみて出でゆかむとす。
皆すさまじげなる気色《けしき》して、「狂人」と一人いへば、「近きに報《むくい》せでは已《や》まじ」と外の一人いふを、戸口にて振りかへりて。「遺恨に思ふべき事かは、月影にすかして見よ、額に血の迹《あと》はとどめじ。吹きかけしは水なれば。」
中
あやしき少女《おとめ》の去りてより、ほどなく人々あらけぬ。帰《かえ》り路《じ》にエキステルに問へば、「美術学校にて雛形《モデル》となる少女の一人にて、『フロイライン』ハンスルといふものなり。見たまひし如く奇怪なる振舞《ふるまい》するゆゑ、狂女なりともいひ、また外の雛形娘と違ひて、人に肌見せねば、かたはにやといふもあり。その履歴知るものなけれど、教《おしえ》ありて気象よの常ならず、※[#「※」は「さんずい+于」、第3水準1−86−49、49−12]《けが》れたる行《おこない》なければ、美術諸生の仲間には、喜びて友とするもの多し。善《よ》き首《こうべ》なることは見たまふ如し。」と答へぬ。巨勢《こせ》、「我画かくにもようあるべきものなり。『アトリエ』ととのはむ日には、来《こ》よと伝へたまへ。」エキステル、「心得たり。されど十三の花売娘にはあ
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