るのか。
「何か用事かい、石村さん」と田辺は我慢しきれなくなって訊ねた。
 すると藤作老は煙管をとんとん木株に叩きつけ、
「うむ、大して用でもねえけんど、これ……」といって懐中から一通の書付を出した。
 組合から、年度替りだとの理由で、親父の代にこしらえた借金、元利合計二千百三十円なにがしというものの催告である。
 何が故の、急速な、思いもかけぬこの催告か――口をあけて首をひねりながら眺めている田辺定雄へ向って、
「では、よろしく、頼みますよ。」
 浴びせかけて、藤作老はすたこらと歩き出した。
「まず、ちょっと待ってくれ。」
「何か用かな。」
「これは……と、あれ[#「あれ」に傍点]だあるめえな、俺ンとこ……いや、借りのあるもの全部へも、やはり同じように催告が行ってるのかな。」
「さア、どうかな。そいつは、俺には……」
「だって君は、事務やっていて……」
「事務は事務でも、俺のような下ッ端のものには……まア、おかせぎ。」
 ひょかひょかと行ってしまった。
「無茶だ」と田辺はつぶやいた。「畜生、なんだと、期日までに返済なき場合は、止むを得ず……強制……執行する場合もあるべく……だって……へえ、畜生、いいとも、やって見ろッちだから……」
 ところでその翌日のこと、こんどは油屋の番頭がやって来て、「いや、先生、(先生などとこの番頭はわざと呼んで)こないだの村会では……」と藤作老と同じようなことを言い、さらに付け加えて、「いや、瘤村長の噂はこの地方十里踏出してもまだ知れているんですからね。退治なくてはならんと、みんなが言っているような始末で……」
 そして何の用だと田辺がいらいらして訊ねると、やはり組合と同じような催告状であった。しかもここは少し大きく、元利合計三千百何円なにがし。
 つづいて田辺は農工銀行からも、無尽会社からも、年度替りを理由の催促を――それも前例を破って、いずれも元利合計……まるで破産の宣告でも受けるもののようだった。
 何か眼に見えない敵が前後左右からのしかかって来る。たしかに……畜生、それは何ものなのだろうか。当時、土地は値下りの絶頂で、この地方では水田反三百円ないし三百五十円、畑百五十円ないし二百円どまりであった。一々相手になったのでは無論のこと家屋敷まですっぽろった[#「すっぽろった」に傍点]って足りはせぬ。
 いったい、どうしてこんな破目に……俺の信用というものが……。むしろ瘤と一戦を交えたことによって――彼はあれをきっかけにあくまでやる覚悟をきめていたのである。――村民の信望をかち得たはずの俺ではなかったのか。
 しかるに……考えると頭が痛かった。二日も三日も、彼は一室にこもったきりで、財産目録を傍に、切り抜け策をとうとうはじめなければならなかったのである。
「あんた、お巡りさんよ。」
 妻の心配そうな顔が、障子をあけて……。それはもはやどうにも対策が考えつかず、いっさいを投げ出して再び満鮮地方へでも出かけようかと捨鉢な気持さえ起りかねない矢先だった。
「なんでしょうね、あんた……」と妻は心配そうに重ねていっている。
「何かな、別に、俺、ケイサツに用のあるはずもねえが……」
「今日《こんち》は……田辺さん――」と巡査の呼びたてる声。
「あい、何か用か……」
 出て行くと、村の巡査は、ばか丁寧に、少し世間話をやってから、
「いや、お忙しいところを……」
と言って、そして紙片を出し、田辺へ突き出して、
「なアに、何でもないでしょう。ちょっと訊ねたいことがあるとか言ってたようでしたから、たぶんそれでしょう」と説明した。
「ふう……明××日、本人出頭のこと……代人を認めず……ふう。」
 田辺は平べったい顔をひきゆがめ、鼻をくんくん鳴らしながら、二度も三度もその文句を口にしている。
「なんでもありませんよ……いや、時に、こないだ村会で大いにやられたそうで、村民も大喜びでしょう。実際、私からいってはなんですが、瘤のこれまでのやり方というものは、その、あれ[#「あれ」に傍点]ですからな……」
「これは、やっぱり、本人が行かなくちゃいかんものかな」と田辺は顔をしかめて呻るように言った。
「はア、やっぱり、本人が……」
 次の日、F町の警察へ出かけた田辺定雄は夜になっても帰らず、その翌日もかえらなかった。
 選挙違犯で、彼から「清き一票」を買ってもらったという十数名の村人と共に、ひどい取調べをされているという噂が立った。すると、
「ああ、それはなんだ[#「なんだ」に傍点]よ」とわざと田辺の妻へ言ってくれるものが出て来た。「それは、奥さん、瘤神社[#「瘤神社」に傍点]へお詣りすれば、はア直ぐに帰されるよ。そのほかに方法はないでさ。」
         *    *    *
 以上のようなことがあってから、約一ヵ年半の月日
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