集まった金は一銭の剰余も不足もなく金ピカの大礼服及び付属品|一切《いっさい》代として決算せられたのである。柳原ものではあるまいかと思われるような上下色沢の不揃いな金モール服が何と六百何円――貧乏村の校長氏の高等官七等の栄誉を飾るためにこの瘤村長は通学児童の筆墨代をせしめ[#「せしめ」に傍点]たのである。)これにつづいて学校新築の問題が表面化した。増築案は前村長時代から持ち越されていたものだが、それさえ行き悩みつつあったのに、今度はさらに何万かを加算しての新築案。
「また葭簀の壁の学校こしらえて一と儲けする気か知れねえが、もうみんな、黙っちゃいめえで……」
 村民は依然として蔭では言うものの、公然とこの案に対して無謀を叫ぶものもなかったのである。いや、大いにやってもらって、教育上、ないし児童の保健上、現在のような雨漏り吹き通しの校舎はよろしくない――立派な鉄筋コンクリート二階建の校舎を近村に誇ろうではないかというようなのが、村当局一般の意向でさえあるらしかった。

 さて、田辺定雄が鮮満地方の放浪生活を切り上げて村へ帰ったのは、村の事態が以上のような進行をしている最中だったのである。くわしく言えば、津本村長再選後間もない頃のことであったのだ。この青年は、さる私立大学を中途でやめて軍務に服し、少尉に任官して家へかえり結婚したが、当時、親父がまだ身代を切り廻していて、作男達と共に百姓でもしない限り、全く居候的存在にすぎない自分を不甲斐ないものに思い、服役中過ごした南満の地に再び舞い戻って、満鉄の業務員、大連の某会社の事務員、転じて朝鮮総督府の雇員……と数年間を転々したのであった。しかるに今度、親父の死、それに学閥なき者の出世の困難さにつくづく業を煮やしていた矢さきという条件も手伝って、祖先の地とその業務にかえる決意をしたので……
 半年間は家産の再検討に過ごした。親父がかなり放慢政策をとっていたと見えて、五町歩の水田と三町歩の畑、二十町歩の山林のうち、半分は手放さなければ村の信用組合、F町の油屋――米穀肥料商――農工銀行、土地無尽会社、その他からの借財は返せなかった。三円五円という村内の小作人への貸金、年貢の滞り――それらは催促してみたがてんで埓があかず、いや、それらの小農民たちの生活内情を薄々ながら知るに及んで、むしろ何も深く知らず催促などした自分の不明が恥かしくさえ感
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