じたほどだった。
所有地管理の傍ら、一人の作男と下働きの女中を置いて、一町八反の自作――それが親父のやって来た家業であったが、覚束ない老母の計算を基盤に収支を出してみると、明らかに年二百円の損失であった。そこへもってきて、正確な小作米、畑年貢などが予期されないとすれば、信用組合、銀行、無尽会社への利払いでさえ容易のことではない。まして油屋の方など身代を倒《さかさ》まにふったとて追っつくものではなかった。そこへもってきて、一方からは神社修復の割当寄付だ、特別税戸数割だ、村農会費の追徴だとはてしがなく、しかもそれらは親父の代と比較すると倍に近い数字をもって現れてくるのである。
「瘤に喰われるからだ」という例の村人の噂、いや、鬱勃たる不平――表面化することの不可能なその哀れむべき暗い不満の感情が、次第に彼にも伝えられるようになった。「改選も間近かなんだから、ひとつ旦那さんにこんどは村会へ出て瘤を退治てもらわなくては……」というようなことをそれとなく持ちこんでくる知り合いの者もあるようになった。
前村長中地の時代には、彼の親父も村議の一員として村政にあずかっていたのである。しかもどちらかといえば親父は中地派で、内々では津本反対の一人でもあったのだ。津本が数千円の穴をあけっぱなしで村長を辞めたあとの尻ぬぐいを中地がおめおめとやるのについて強く反対し、瘤に赤い着物をきせろ、とまでいったのも彼であった位で……が、本来弱気のこの長老はそれ以上表立って津本をどうすることも出来なくてしまったのである。
それにしても村人にとってこれは一つの「伝統」であった。反津本派で通った親父の忰も、同様に反津本派でなければならぬ。そして全村内で反津本派と目されているのは、現助役の杉谷と他の三人の村議――それから有志と称せられる連中からすぐって見たら十数名はいることであろう。これらすべてが一心同体になれば津本を蹴落すことは決して不可能ではないにも拘らず、そこには表立って行動するだけの気概のある人間がいなかったのだ。
「若いものの元気でやってもらわなければ、村はますます貧乏するばかりだ。ひとつ、村のためだと思って、どうでしょう……」
改選期も迫るや、田辺定雄は、二三の有志からついに正式交渉を受けるまでになったのであった。彼は躊躇しないではなかった。が、半面には「名村長」と一戦を交えるのも退屈しのぎ
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