た。
 勝は歯ぎしりして腰を落し、両の手で竹竿を支え上げるようにして母に抜かれまいとするが、そうすると鋤簾の奴よけいにぶらぶらとかぶり[#「かぶり」に傍点]を振って、ともすれば、小さい勝の身体を道傍へ投げとばしそうにする。
 天秤籠にどさんと堆肥を盛り上げ、その上へ万能《まんのう》や泥掻きなどを突き差して担いだ親父の浩平は、そのときすでに部落を横へ出抜けて、田圃へ下りる坂道にかかっていた。雨上りの、ともすればつるりこんと滑りがちなじめついた土の上を、爪先で全身の勢いを停めながら、彼はそろそろと降りてゆく。そのあとから由次が身がるに小さい方の鋤簾をかついで、口笛を吹き吹きつづいた。由次は十六だが、昨年の稲刈り時分から眼に見えて背丈が伸び、いまでは親父の肩の辺まで届きそうになっていた。
「由、その泥掻き、お前持て。駄目だ。邪魔になって、歩きづらくて。」
 親父が息を止めて言うと、彼はひょいと横あいからそれを引ったくるなり、左の肩へ鉄砲のようにかついで、そしてとっとと坂を駈け下りた。
 一日も早く植えてしまわなければならぬ八反歩ばかりの田を控えて、赤ん坊の手さえ借りたい今明日、尋常六年生のおさよは無論のこと、今年入学したばかりのおちえまで学校を休ませ、そして留守居させての、文字どおり一家総動員の田植作業であった。旱魃を懸念された梅雨期の終りの、二日間打つづけの豪雨のおかげで、完全に干上ろうとしていた沼岸の掘割沿いの田が、どくどくと雨水を吸い、軟かく溶けて来ていたのだ。
 明け放れの早い六月の空には何時か太陽が昇って、沼向うの平野はひときわ明るく黄金色に輝き出していた。風もなく、紺碧の沼は崇厳なほど静かだった。やがて浩平一家のものは、よちよちと蟻が長い昆虫を運ぶような恰好をして、勝が、むしろ鋤簾そのものに曳きずられるようにしてやってくるのを殿《しんがり》に、丘を下りて掘割に沿い、自分の作り田へ着いた。そのとき黄金の光りは此方《こちら》――丘の裾の長く伸びた耕地にまで輝き渡って来た。畑地の方の薄い靄を含んだ水のような空には、もう雲雀《ひばり》が高く揚《あが》って、今日一日の歓喜を前奏しつつあった。
 荷を下ろすより早く彼らは各自仕事にとりかかった。おせきは万能を手にして代田《しろた》の切りかえしであった。由次は掘割へ自分の持って来た長柄の鋤簾を投げ込んで、そして泥上げである。
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