といってももはや後半生も残り少なになっているのであるが――かかることの絶えざる繰りかえしであった。彼は高飛びをするとか、あくまで盗みを隠匿するとかいう智能は持たなかった。近所の、様子のよく分っている家の米俵をかついでは、苦もなく「上げ」られて、そして累犯々々で、次第に長たらしい刑期を送らなければならないようになった。が、いっこう、それが苦にならないらしい。先年、中風の老爺を「あの世」へ送ってからは、全く彼は呑気に、のそりのそりと牛のようにやっていたという。刑務所でこしらえて来た貯金が、そうしたしばしの彼の生活費にあてられるらしく、それが尽きて、村の商い店へものを買いに来なくなると、「もうそろそろはじまるぞ」と村人は笑い出すのであった。
 実際、警戒などしたって仕方がない。俵にかけては神様も同然の彼のことである。かつがせておいて、あとで尻っぽを抑えればそれでよかったのだ。従って村人は彼の存在を大して苦にしない。刑期を終えて彼がかえって来れば、「今日は」「いや、しばらく!」であった。

     コソ泥のR

 S部落の自作農Rがまた「上げ」られた。今度こそ慣例の「もらい下げ」も利《き》くまいし、親戚・縁者とて、またしても歎願運動を起すようなことも出来まい。なんとなれば彼らはつい三ヵ月ばかり前、村の「有力者」に頼んで、すでに三十何件かのコソ泥を自白した彼を「晴天白日」の身にしてやったばかりである。そしてR自身、そのために金一封、五百円ばかりを使ったばかりである。
 そのRが全く「性懲りもなく」俗に相田屋で通っている一農家――もとここは宿場であった関係上、当時は何か商売をしていたのでそう呼ばれているのであろうが、現在は交通関係の変遷で、多くのそうした家のように百姓をしている――へ忍び込んで、上り框に据えられた時代ものの長火鉢の曳出しを、またしてもねらったのであった。
 彼は俗用のためしばしば出入りするこの隣人の家の、小金の有り所をいつの間にか知っていたのである。もっともまとまった金など、どこの農家も同じこと、この家にもありようはずはない。時によっては十銭玉一つ入っていないようなことも稀ではないぼろ財布なのだ。
 しかし十銭玉一つであろうが、一銭銅貨一枚であろうが、とにかく「塵一本」でも「自分のもの」として蓄《た》め込むことに無上の法悦(?)を感ずるRにとって、それは不可抗の誘惑だったに相違ない。ひょっとすると今夜あたり、猪の一枚も間違って入っていないと、誰が保証し得ようぞ。
 それにしても家の中はやはり家の中で、決して誰もいない暗夜の野っ原ではなかった。野っ原から家の中への転向し向上した彼にとって、たしかにそこは勝手が違っていた。
 彼は家人に見つけられてしまったのである。眠っていると思ったこの家の親父が、あるいは眼をつむったまま、まだ何か考えごとでもしていたのだったかも知れぬ。彼は古い煤だらけの手槍をなげし[#「なげし」に傍点]から外し持ったその禿頭親父のために、横合いから危く突っこ抜かれようとした。辛うじて逃げ出しはしたものの、肝心の証拠をそこに残してしまったのである。
 証拠というのは片方の草履だった。音をたてまいために彼がわざわざ穿いて行ったR家独特のぼろを交ぜてつくった、ばかりでなく、その上へご丁寧にも、人に盗まれまいために焼印まで捺した草履だった。
 Rのような、かかるコソ泥は、決してどこの村にも珍しくない存在である。彼らは別にその日その日の食物に困っているのでもなければ、公租公課の負担に押しつぶされてしまっているわけでもないのだ。ただ、身上をふやしたい、土地持ちになりたい、ならなければならぬ、といったような封建的な――というよりは近代的なといった方が当るかも知れぬ――ある百姓心理のこり[#「こり」に傍点]固まりなのだ。
 彼らは最初、きまって無我夢中に働く。馬車馬のように向う見ずに働いて働いて働き抜くのである。病気ということも知らなければ、世間体ということも知らない。何ものかに憑かれたように、ないしは悪魔のように働く。だが、五年、十年、彼らの希望は、岩にかぶりついても達しなければおかないその希望は、なかなか実現しない。彼らの依拠する旧式農法による生産高を現在の経済組織はみごとに裏切って行くのである。そこで彼らは申し合せたようにこそこそと他人の生産物を曲げはじめる。
 そしてかかる方法をうまく実行して堂々と穀倉を打建て、小地主に成り上る者さえあるのだから、なかなか世の中は広い。

     札つき者のA

 I部落のAは青年時代に「強盗殺人未遂」というどえらい罪名で「上げ」られて行ったきり、決して村人の前へ姿を現さなかった。実家へは時々「立ち廻る」とか、金を送ってよこすそうだとかいわれもしたが、それもおそらくうわさにしか過ぎなかった。
「岩田のKの子分になったそうだ」ともうわさされた。そしてこれは信用するに足るものだと観察するものもあるのだった。岩田のKという泥棒は、この常南地方の「出身」で伝説的な義賊である。鼠小僧の再来とまでうたわれたとかいう話が今もって残っている。だが、その正体は誰も見たものもなく、ただ徒らに名ばかり高いのである。時によっては、この地方からもそうした大泥棒が出たということが、一種の誇りをさえ伴なって、人々の口から耳へ伝波するのであった。
 ところでその岩田のKが大往生を遂げたというニュースとともに、いつしか今度は、I部落のAがそのあと目をつぎ、妾の四五人も置いて豪勢にやっているという話が、村へひろまってしまったのだった。そして一流れ者の小忰であるAは、ここ数年の間、大泥棒、大親分として、ひそかに村人の、伝統的な英雄崇拝感といったようなものを満足せしめていたのである。
 それまではそれでよかったが、そのAが、最近、ひょっこりと村へかえって来たのであった。予期に反して彼は「尾羽打ちからし」た、見るも哀れな態《なり》をしていた。しかし不思議――でもないか知らんが、とにかくAは女房をつれていた。
「あんな奴にでも連れ添う女はあるもんかな。」
 妾の四五人も抱えているはずのAも、村人にかかっては堪らない。さっそくもとの一流れ者の小忰に還元されてしまい、横目でにらんでふふんとやられてしまった。
 しかしそれはとにかく、Aはいっこう平気で、沼岸の一農家の、空いている古い隠居家を借りて、そこへ世帯を持ったのであった。彼はなんらきまった職もないらしく、毎日沼岸の丘の上から天空を眺めて日を送っていた。女房が一人で袋張りをしたり、子供の玩具の風船をこしらえたりしていた。彼女はまだ三十そこそこらしく、都会の裏町で育った多くの女性達のように色もなくやせて、口ばかりが達者だった。
 村人はこの一家に警戒の眼を光らした。強盗殺人……などという凄い罪名が背中に書かれている人間など、どうして村へ入れたのだったろうか?
 しかしながら数ヵ月過ぎても、村にはなんらの被害もなかったし、それからまた心配していたような風体の悪い人間が、Aをたずねて来るというようなこともないのであった。
「奴は改心したのかな。」
 女房の口から漏れたところによると、A一家は東京の下谷とかで何か商売をしていたということだった。しかし東京も不景気で暮しにくいから、保養かたがた田舎へやって来た云々、……A自身も時々近くの家へ遊びに行くようになって、村人の「安心」は次第に増していった。ところがある日、Aの口がちょっとすべったのだ。
「俺には家の構えを一目見ると、どんな大名屋敷でも、どこに金がしまってあるか分る!」
 村人はこの一言に、すっかり戦慄してしまった。婉曲な立ち退き策が成功して、Aは村を去った。空手でやって来た彼は、大きなトラックで荷物を運び出した。

     浩さん

 月に三日間働くことにして今年いっぱい、一日五十銭の割で約束してもらえまいかと、つい五年ばかり前から、小さい名ばかりの草葺家を建てて私の家の屋敷続きに住んでいる松原浩さんが言うのであった。食事はむろん自分持ちとのこと。
 ちょうどその当時、私のところでは東京から帰村したばかりで、それまで妹夫婦に任せきりにしておいた屋敷廻りの片づけ、手入ればかりでも容易なことではなかった。第一、天を摩す……も少し大げさな形容かも知れないが、とにかく永年の間伸び放題、拡がり放題にしてあった南風除けのための周囲の椎の大木の枝を、人を雇って伐り払ったその後始末からして、私の柔くなってしまった手には負えることでなかった。壊れた外廻りの垣根から、廃屋を取毀したあとの整理、井戸浚い、母家の修繕……と数え立てると眼前に待っている仕事だけでも限りがない気がする。机の前に座って自分の仕事を――原稿書きをしようとしても、そういうことを気にしだすともう手がつかないのである。で、浩さんからの申し出を私たちは二つ返事で承諾したのであった。それに全く誂えむきに、彼は百姓仕事のみならず、壁塗りでも、垣根づくりでも、井戸掘りでも、植木類の移植のような仕事でも、なんでも器用にやれるという村人の評判であったのだ。年齢は三十七だとのことで、五つ六つ年上の女房と二人暮しをしていたのであるが、私たちが帰村してから間もなく、その年上の女房は「逐電」――浩さんの直話――してしまい、彼はその時妹だという「ちょっとした女」――これは村の一中年者の酒の上での表現――といっしょに、その一室きりない草葺家に暮していたのであった。彼はほんの少しばかりの田畑を小作しているとのことだが、むろんそれだけで足りようはずはなく、養蚕時はその手伝いに、農繁期には日傭取りに……というふうにしてささやかな生計を立てていたのである。妹だという三十二三の女は、村に似合わぬ町場の商売女のような風姿をして、なすこともなく家の中に遊んでいた。彼女は十年も「籠の鳥」――村人の言葉――をしたあげく、そこを出て来てからは、いわゆる「ちょっとした」その風姿が物語るごとく、場末のカフェとか、田舎町の料理店とかを転々としていたのだそうで、「三日もすると」――これも村人の表現――そこを飛び出してしまうのが常習であったとか。
        *    *    *
 もっともこうしたことは、私たちはあとで聞いたので、帰村当時は、村人ともあまりそういう種類の話をする機会もなかったので、何も知らなかったのである。しかし浩さんが村でいう「とはり」というところの出であることは、私は彼の小さい住居が私の家の前の桑畑の片隅へ建ったとき聞いていた。それにしても私たちにとって、そうした種類のことは少しも問題でなかったのである。月に三日間、ことによっては差し繰って五日でも六日でも仕事にやって来てくれるという一事に、私たちは最大の利便と助力とを感じたのであったのだ。
 約束は伐り払ったままになっていた椎の木の枝を片づけに一日頼んだ夕方に出来上ったのであった。浩さんは次の日も来てくれて、枝の片づけをどうやら終った。それは旧正月の二日前のことで、村では餅つきも終り、一年間の決算をつけなければならぬ間際であったのだ。浩さんはその晩近所の親しい家で酒をご馳走になって来た……などと言いながらひょっこり土間へ入って来た。私は就床していたが、酔ったと言いながら何かしおしおしている浩さんの顔を見ると、「金だな」と妻は直感したそうである。翌くる日浩さんはまたやって来た。いくら位要るのだと訊ねると、彼は、年の暮で、どうも……と濁している。結局半年分、いや十円もあればどうやら越せるのだと言う。私の考えでは、村の習慣を知らぬものだから一年分を三つにしてその一つだけでもやればいいのだろうと考えていたのであった。十円は私たちにとって実に痛かった。東京では一家六人の生計がどうにもつかず、村へ帰れば、廃家ではあるが家賃の出ない「屋根の下」があることだし、なおその他のいわゆる「諸式」だって少しは軽減されるであろうし、それから精神的な理由もあったが、とにかくそう考えて生活転換をした矢先なのである。だが、文筆生活などをしていると、一文なしになるこ
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