過ぎなかった。
「岩田のKの子分になったそうだ」ともうわさされた。そしてこれは信用するに足るものだと観察するものもあるのだった。岩田のKという泥棒は、この常南地方の「出身」で伝説的な義賊である。鼠小僧の再来とまでうたわれたとかいう話が今もって残っている。だが、その正体は誰も見たものもなく、ただ徒らに名ばかり高いのである。時によっては、この地方からもそうした大泥棒が出たということが、一種の誇りをさえ伴なって、人々の口から耳へ伝波するのであった。
ところでその岩田のKが大往生を遂げたというニュースとともに、いつしか今度は、I部落のAがそのあと目をつぎ、妾の四五人も置いて豪勢にやっているという話が、村へひろまってしまったのだった。そして一流れ者の小忰であるAは、ここ数年の間、大泥棒、大親分として、ひそかに村人の、伝統的な英雄崇拝感といったようなものを満足せしめていたのである。
それまではそれでよかったが、そのAが、最近、ひょっこりと村へかえって来たのであった。予期に反して彼は「尾羽打ちからし」た、見るも哀れな態《なり》をしていた。しかし不思議――でもないか知らんが、とにかくAは女房をつれていた。
「あんな奴にでも連れ添う女はあるもんかな。」
妾の四五人も抱えているはずのAも、村人にかかっては堪らない。さっそくもとの一流れ者の小忰に還元されてしまい、横目でにらんでふふんとやられてしまった。
しかしそれはとにかく、Aはいっこう平気で、沼岸の一農家の、空いている古い隠居家を借りて、そこへ世帯を持ったのであった。彼はなんらきまった職もないらしく、毎日沼岸の丘の上から天空を眺めて日を送っていた。女房が一人で袋張りをしたり、子供の玩具の風船をこしらえたりしていた。彼女はまだ三十そこそこらしく、都会の裏町で育った多くの女性達のように色もなくやせて、口ばかりが達者だった。
村人はこの一家に警戒の眼を光らした。強盗殺人……などという凄い罪名が背中に書かれている人間など、どうして村へ入れたのだったろうか?
しかしながら数ヵ月過ぎても、村にはなんらの被害もなかったし、それからまた心配していたような風体の悪い人間が、Aをたずねて来るというようなこともないのであった。
「奴は改心したのかな。」
女房の口から漏れたところによると、A一家は東京の下谷とかで何か商売をしていたということだった。しかし東京も不景気で暮しにくいから、保養かたがた田舎へやって来た云々、……A自身も時々近くの家へ遊びに行くようになって、村人の「安心」は次第に増していった。ところがある日、Aの口がちょっとすべったのだ。
「俺には家の構えを一目見ると、どんな大名屋敷でも、どこに金がしまってあるか分る!」
村人はこの一言に、すっかり戦慄してしまった。婉曲な立ち退き策が成功して、Aは村を去った。空手でやって来た彼は、大きなトラックで荷物を運び出した。
浩さん
月に三日間働くことにして今年いっぱい、一日五十銭の割で約束してもらえまいかと、つい五年ばかり前から、小さい名ばかりの草葺家を建てて私の家の屋敷続きに住んでいる松原浩さんが言うのであった。食事はむろん自分持ちとのこと。
ちょうどその当時、私のところでは東京から帰村したばかりで、それまで妹夫婦に任せきりにしておいた屋敷廻りの片づけ、手入ればかりでも容易なことではなかった。第一、天を摩す……も少し大げさな形容かも知れないが、とにかく永年の間伸び放題、拡がり放題にしてあった南風除けのための周囲の椎の大木の枝を、人を雇って伐り払ったその後始末からして、私の柔くなってしまった手には負えることでなかった。壊れた外廻りの垣根から、廃屋を取毀したあとの整理、井戸浚い、母家の修繕……と数え立てると眼前に待っている仕事だけでも限りがない気がする。机の前に座って自分の仕事を――原稿書きをしようとしても、そういうことを気にしだすともう手がつかないのである。で、浩さんからの申し出を私たちは二つ返事で承諾したのであった。それに全く誂えむきに、彼は百姓仕事のみならず、壁塗りでも、垣根づくりでも、井戸掘りでも、植木類の移植のような仕事でも、なんでも器用にやれるという村人の評判であったのだ。年齢は三十七だとのことで、五つ六つ年上の女房と二人暮しをしていたのであるが、私たちが帰村してから間もなく、その年上の女房は「逐電」――浩さんの直話――してしまい、彼はその時妹だという「ちょっとした女」――これは村の一中年者の酒の上での表現――といっしょに、その一室きりない草葺家に暮していたのであった。彼はほんの少しばかりの田畑を小作しているとのことだが、むろんそれだけで足りようはずはなく、養蚕時はその手伝いに、農繁期には日傭取りに……というふうにしてささやか
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