の誘惑だったに相違ない。ひょっとすると今夜あたり、猪の一枚も間違って入っていないと、誰が保証し得ようぞ。
それにしても家の中はやはり家の中で、決して誰もいない暗夜の野っ原ではなかった。野っ原から家の中への転向し向上した彼にとって、たしかにそこは勝手が違っていた。
彼は家人に見つけられてしまったのである。眠っていると思ったこの家の親父が、あるいは眼をつむったまま、まだ何か考えごとでもしていたのだったかも知れぬ。彼は古い煤だらけの手槍をなげし[#「なげし」に傍点]から外し持ったその禿頭親父のために、横合いから危く突っこ抜かれようとした。辛うじて逃げ出しはしたものの、肝心の証拠をそこに残してしまったのである。
証拠というのは片方の草履だった。音をたてまいために彼がわざわざ穿いて行ったR家独特のぼろを交ぜてつくった、ばかりでなく、その上へご丁寧にも、人に盗まれまいために焼印まで捺した草履だった。
Rのような、かかるコソ泥は、決してどこの村にも珍しくない存在である。彼らは別にその日その日の食物に困っているのでもなければ、公租公課の負担に押しつぶされてしまっているわけでもないのだ。ただ、身上をふやしたい、土地持ちになりたい、ならなければならぬ、といったような封建的な――というよりは近代的なといった方が当るかも知れぬ――ある百姓心理のこり[#「こり」に傍点]固まりなのだ。
彼らは最初、きまって無我夢中に働く。馬車馬のように向う見ずに働いて働いて働き抜くのである。病気ということも知らなければ、世間体ということも知らない。何ものかに憑かれたように、ないしは悪魔のように働く。だが、五年、十年、彼らの希望は、岩にかぶりついても達しなければおかないその希望は、なかなか実現しない。彼らの依拠する旧式農法による生産高を現在の経済組織はみごとに裏切って行くのである。そこで彼らは申し合せたようにこそこそと他人の生産物を曲げはじめる。
そしてかかる方法をうまく実行して堂々と穀倉を打建て、小地主に成り上る者さえあるのだから、なかなか世の中は広い。
札つき者のA
I部落のAは青年時代に「強盗殺人未遂」というどえらい罪名で「上げ」られて行ったきり、決して村人の前へ姿を現さなかった。実家へは時々「立ち廻る」とか、金を送ってよこすそうだとかいわれもしたが、それもおそらくうわさにしか
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