ねえのか。」
儀作ははっ[#「はっ」に傍点]と胸をつかれた。そういう前村長が何を意味するか、あまりに判然と、電撃のごとく閃いてきたからである。――村から東京方面へ娘を出かせぎに――泥水商売の女に出している家に限って租税の滞納がない。ことに三人の娘を出している家など、村の事業に相当の寄付さえ惜しまなかったというので、その家を表彰しようじゃないかと言う案を村会へ持ち出したのが、すなわちこの前村長だったのだ。
四
季節はあまりに早く推移するように思えてならなかった。いつか、村の前面を迂曲する谷川の氷が割れて冬中だまりとおしたせせらぎが、日一日とつぶやきを高め、ついにそれは遙かに人家の方へまで淙々のひびきを伝えて来るまでになってしまった。山々の雪が解け出したのだ。春四月にもなれば毎年きまって繰返される自然の現象ながら、村人には、その大地の底から湧き起るような遠いとどろきと雪解の黒い山肌とは、何かしらじっとしておれないどよめきを感じさせずにいなかった。
人々は炉辺から起ち上る。そして真っ先に冬季中、山で焼かれた炭を運び出すべき時節であった。ところが今年は、その炭運びのための肝心の馬の使えない家が――当の馬奴《うまめ》は厩《うまや》の中で早く戸外へ出たくて眼色をかえ、張りきって土間を足騒いているにも拘らず、――そこにもここにも出現していた。
栗林儀作のところも無論その中の一軒だった。儀作は雪解の泡立つ流水を落している川瀬の音に頭脳をもみくちゃにされ、青々と色づいた山々や、柔かい大空、中腹の段々畑の土がひょこり、ひょこりと真っ黒に、一日ごとに現れ出るのなどを眺めやるたびごとに眼がくらくらしてきて、ついに、口に出して言ってしまう。
「畜生、二百円が馬と転んだか――」
覚悟はしていたものの、督促の期限がきれて執達吏から牝馬の差押《さしおさえ》を食わされたとき、彼はその結果に、いまさらびっくりせずにいられなかった。五十円の借金が十六七年もすればそれ位になるのは、前村長の言い草ではないが、まア当然……それはあえて怪しまないが、村の巡査と共にやって来た役人が、家財道具など物色したが、結局、二百円なにがしに相当するものは、厩にもそもそと藁を食っている一匹の動物しかないことを確かめて、口先で何か断りを言いながら、それに封印して去ったあと、彼は、はじめて胸が破れるほど打っていたのを知ったのであった。
第一、炭運びが出来やしない、書き入れ時だというのに。そればかりでなく、戦時下の増産計画で、共同馬耕をつい先日協議したが、それも……村では、牡馬はよほどのよぼよぼでない限り、とうに徴発されてしまって殆んど残っていなかったのだ。
結局、どうしてここを切りぬけたらいいのか。
「……やはり、娘に助けて貰うことにしたって――」その日一日、ぽかんとして家の周りをぶらついていた翌朝、彼の耳へ、今もってぶらぶらしている女房からそんなことが伝えられた。洋服を着た周旋屋がきょろきょろと隣村の停車場から下車して、この部落へも姿を現すのを彼とて知らぬわけはなかった。軍需景気で、東京方面ではそういうものがいくらでも必要だということも。
しかし、儀作は女房の一言にかっ[#「かっ」に傍点]となって、
「ばかッ」とどなった。
「ばかッ、そういうまねは、流れ者か、碌でなしのすることで、れっき[#「れっき」に傍点]とした先祖代々からの百姓のすることだねえど。この青瓢箪。」
「でもそんなことを言ったって、馬にゃ換えられめえ。」
「ばかッ……」
「俺、お美津にきいて見ッから。」
お美津はそのとき、封印された馬に新しい切藁を与えていた。飼葉桶を内側へ入れようとすると、馬はいつものように鼻で言葉をいうように首を押しつけてくる。「こら、そんなことして……これ、汚れるからやだよ。――そんなことしねえたって、やるからそれ……あら、こんなによだれだらだら、俺げくっつけて……」
それからお美津は、厩の前を掃除して、その掃き屑を塵取りに入れ、屋敷のすみの柿の木の下へ掘った穴へ棄てにゆく。鶏の群が何か餌でもくれるのかと思って、ぞろぞろとそのあとを追う。ねんねこ絆纏をまだ脱ぎもせず、長い、雪に埋もれた冬の間、火もない土間で、夜まで繩をなったために、手は霜焼けに蔽われ、髪の毛はかさかさにほおけ立って見える。十七とはいえ、まだ女にならぬであろう小さい臀部が――
「ばかッ、聞いてみなくたっていい。」
「清作さんら家の、おみさも行くというし、あれも、たしか、うちのお美津と……」
「いいから、そんなこと、つべこべ……」
儀作は女房めがけて一撃を加えたい衝動にかられてきたので、急いで厩の前の、お美津がいまのいま掃除した地面の上へ大きな足あとをつけて馬の方へ歩みよった。仔馬のうちから自分の子供のようにして育て上げた鹿毛の奴が、ふうっと鼻息を一つ彼へ吹っかけ、例によってお愛想に低く啼いて、眼をうるませるのを見ると、儀作のむかむかしていた胸は少しく鎮静した。
厩の前には、すでに油をくれて、挽き出すばかりに用意された、荷馬車が置いてあった。儀作は何ということなしに、その重い車体を少し持ち上げて、それから一方の車輪に手をかけ、くるくるとそれを廻してみた。すると鹿毛は、いよいよ山へ行けるのかと言うように、飼葉桶を首ではね[#「はね」に傍点]退《の》け、片肢でかっ[#「かっ」に傍点]、かっ[#「かっ」に傍点]と地面を蹴り出した。
「間抜けめ、そんなことをしたって、こン畜生……、その判コの捺さった紙、見えねえのか。」
儀作はなおも車輪を廻していたが、やがてぷいと門口から出て行った。
底本:「犬田卯短編集二」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
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