部分を少し消して、あのホウは心配するな、こんど財政をやることになった古谷の若旦那どのは『東京もン』で大学教育を受けた人物であるから、物分りがいいに決まっている。というようなことを書いてそれで打ちきることにした。

     二

 時局の波は、この東北の山間の村々にも、ひたひたと押しよせつつあった。
 幾つかの谷川がK川と名がついて、山あいの細長い耕地を流れ、それがさらにS川に合流しようという地点……M盆地の最も肥沃と称せられる一角に位置する約百二十戸ばかりの部落の、いわばこの地方の物資の小集散地であった中郷にもその波頭は用捨なくやって来て、ことにこの部落の、それこそ旧幕時代から経済の中心をなしていた古谷傅兵衛など[#「傅兵衛など」はママ]、その大きな波濤を全身で浴びて立っている一つだった。
 傅兵衛の[#「傅兵衛の」はママ]店舗は、周囲五里余の山腹の村々から、海原にうかぶ一つの白い小さい島のように、不規則に散在する田んぼの中の村々の木立を越えて美しく眺められた。棟を並べた酒倉、白亜塗りの土蔵、石造のがっしりした穀倉、物置、その他雑多な建物の一方に、往還に向って構えられた大きな母家……槻や欅や、裏山に繁る杉の古木に囲まれて、このM盆地の開拓者の誇りを、それは今もって十分に示しているもののようであった。
 当主傅介は[#「傅介は」はママ]東京方面で、親父とは少しく違った方面の建築材料商をはじめたとかで、これまであまり村へは姿を見せなかったのであるが、父傅兵衛の[#「傅兵衛の」はママ]他界……と言ってもこの半年以前だが、それ以来、しばしば将来を約束された少壮実業家らしいかっぷく[#「かっぷく」に傍点]で、狭い往還に自家用自動車をとばすのが見られるようになった。人の噂によると、東京での商売があまりうまくいかず、先祖代々の家業の方も、先代の放漫政策のたたりやら、この事変のための生産制限やらで、洗ってみれば殆んど何も残らず、今のうちの建て直しという意図からか、何かの軍需工業を興すについて、まずその資金の調達、すなわち貸金の取立てに着手したとのことだった。
 噂はやがて事実となって現れはじめた。祖父、曾祖父以来というような古い証文までどこからか探し出され、しかも一銭一厘の細かい計算の下に、一々しかつめらしい『××法律事務所、弁護士、法学博士、元東京地方裁判所判事、代理人、何某』と印刷された文書に、大きな、眼玉の飛び出しそうな朱印をきちんと捺した督促状が、付近の債務者のもとへ届けられるようになったのである。
 もっともこれらは何千という大口らしく、百や十の単位の小口に対してではなかったのであるが、やがてそれが次第に百や十の、全く忘れられているような小口に対してさえ、同様に物々しい文書が届けられはじめた。それはまるで予期しない恐慌を雪ふかい村々に捲き起した。それに人々はかつてこのような借金の取立て法に遇ったことがなかったので何層倍もびっくりする反面、ただちに反発して『若造』のやり方を詈りはじめもした。古来の抜きがたい習慣を無視してその法律一点張りの、呪われたる督促……それが正月早々からなので、ことに彼らをいきり立たせたのでもあった。
 いかにこの新式の方法に対抗したものであるか。無論、その対抗方法はにわかに解決がつかなかった。ある者は昔式に直接出かけて行って若旦那様に面会を申込んだ。が、肝心のその若旦那様は何時も『不在』。たとい広い邸宅の奥の方に姿が見えたにしても、決して店先へなど現れず、依然として『不在』なのである。先代時分には何憚るところなく、奥の方へまでのし込めたような人たちでさえ、事、借金に関する限り、「それは弁護士に一任してあるのだから、俺は知らない」の一言をきくに尽きていた。
 ところで、栗林儀作も、とうとうその始末にいけない朱印の文書を受取らされた一人であった。彼は北支で鉄道の警備に任じている忰へ古谷からの借金についてのあの手紙を出して間もなく、その配達に接したのであった。先代同様に、いや、先代よりはとにかく東京という文化都市――…………………………………………………………………………後藤新平の言ったとおり、世界で何番目かの大都にこの十年間に見ンごと盛り上ったそこで、長い間教育され、そこの華やかな空気を吸って来ているだけ、当主傅介氏は[#「傅介氏は」はママ]、忰にも書いてやったように物分りがいいであろうと考えていた事実は、今になってあべこべのように思えてきた。だが、彼は人の多くとは違い、もと、挽子として出入りしていて、若旦那のことも子供の時分から知っていた。若旦那の方でも俺のことは知らぬはずがないと彼は考え直した。そこで、他の村人が何回足を運んでも弁護士云々の一語によって手もなく追っ払われるときいても、彼は自分だけはそんなことはないに決まっているという自信のもとに、わざと若旦那の暇そうな正午頃を見計らって出かけたのであったが、やはり見知り越しの手代が出て来て、「あ、そこのことなら……」との挨拶。しかし儀作は、あくまでも若旦那の好意を信じて疑わなかった。三度目に手代に突っぱねられた時、彼は邸宅の門前の雪堆の傍らに待ちかまえていて、若旦那が自動車に乗り出したところを「今日は――」と言ってつかまえた。
「わし、栗林ですが……」というと、
「あ、君か……」
 若旦那は思ったとおり親切であった。すでに車の中にゆったりと座りこんで、匂いのいい煙草をふかしながら、先を急ぐ用事を控えているらしいにも拘らず、儀作の用件を、ふんふん……と一々うなずきながら聞いてくれたのである。「うむ、なるほど事情はよく分った。君もこの際、そんなことをされるのは困るだろうから、弁護士の方へ僕から話をするがな、しかしいっさい、僕はその方には手を出さんことにしてあるんだ。――僕はな、これから新規の事業をはじめるんで忙しいんだよ。君、どうかね、聞けば君も困っているようだが、僕の工場の方へ来て働かんかね、なアに、東京の方ではないよ。この近くへ、もう一つはじめるんだ。ほら、県ざかいのあの鹿取山さ、君らもあの辺はよく知ってるだろう。最近、あの山の向うに、君、調査して見るとアンチモンが何千万トンというほど埋蔵されているんだ。アンチモンと言ったって、君らにはナンチモンか分るまいが、とにかくこれから非常に国家的に有用な鉱物資源なんだ。そいつを大々的にやるんで、どしどし工場や住宅を建築するんだが、あんな君の部落のような山の中腹のつまらない所で一生涯ぴいぴいして土いじりをしているより、どうだい、俺の事業へやって来ねえか。――そして、うんと金をもうけてさ。な、そうしたまえ。なに、親、女房、子供? そりゃ君、それらなりに仕事があるよ。ぜひやって来たまえ。馬車を持っているんなら一日五円にはなるぜ。」
 そして、儀作にはかまわず、運転手を促して、すうっと雪景色の中へ行ってしまった。
 儀作は歯ざれのいいその弁舌――その快調にすっかり酔わされたように、しばし茫然として自動車を見送っていたが、やがて独語した。――あの分ならなんとかなる。

     三

 儀作は数日おいて再び古谷邸を訪ねた。若旦那と弁護士との間になんらかの話し合いがついている頃と考えたからである。それに毎週金曜日に東京から出張してくるはずだときいた当の弁護士、博士、何某なる人物とも、ぜひ一度は遇って、あの差し紙を撤回してもらわなければ物騒で、一日として安心してはいられないからでもあった。
 ところで、几帳面に、雪空にも拘らず出張して来た弁護士が、二人の事務員を使って、せっせと書きものをしている一室へ通された。やがて此方《こちら》へ向き直った博士に、ぼつぼつ事情を訴えたが、博士のいわく、若旦那からは何もきいていない。たとい聞いていたにせよ、この方のことはいっさい自分が責任を負っているので、若旦那には口を出す権利はない……。流暢《りゅうちょう》な東京弁で一気にまくし立てられるばかりか、その隼のような、じっと見据えられる眼に出遇っては、儀作はもはや一言も口がきけなかった。そこには、何か眼に見えぬ、冷厳な重圧が渦をまいていて、人を慄然たらしめるもの以外、何物も存在しなかった。
 燃えさかるストーブの火と博士の弁舌にすっかり汗をかいてしまった儀作は、阿呆のような恰好で古谷邸を辞去した。さて、あの博士に対抗して口のきけるのは、例の『荒蕪地』の払下げについての村人のすべての借金の奔走をした前村長ばかりではあるまいか。二三日して彼はふとそんなことを考えついた。で、いまは自分の部落の区長をしているその老人のところへ、のそり[#「のそり」に傍点]と出掛けて行ったのである。すると前村長は、
「うむ、それは何とか俺が談判してやりもしよう。博士だって、弁護士だって何が怖いことあるもんか。だが、まア、聞け。あれだぜ、若旦那のいう工場かせぎも満更でねえ案だで。これからの世の中は、何といってもその工業というやつさ。百姓ではいくら骨を折っても追いつく沙汰ではねえからな。俺もこれ、三期ぶっとおしに村長をしてみて、つくづくそう思ったよ。」
 大きな松の根ぼっく[#「ぼっく」に傍点]のぷすぷす燃えている炉の正面にどっかと胡座をかいて、六十歳にしてなお若い妾を囲っておくという評判の前村長は、つるつるに剃った頬のあたりをしきりに撫で廻した。
 続いて前村長は、農業衰退の必然性と、重工業、軍需工業隆昌についての世界的な見透しに関して高邁な意見を一くさり述べてから、少しく声を低めて、
「古谷は君、掛け合っても無駄だぜ。実は、よ、あれは君、若造が馬鹿造だから、破産したんだぜ……」
 呵々大笑して、「お蔭で、この山間の村々でも、約三百軒の貧農、中農が、まき添えを喰って倒産する。だが、それも時代の勢いというもので、何とも仕方がない。まずまず身代はたかれて百姓が出来なくなったら、工場だ、工場だ……」
 だが、儀作の耳へはそれは入らなかった。いや、入るには痛いほど入っても、忰がかえるまで、どんなことがあろうと商売がえするつもりはないと告白した。と、前村長はしばらく考えていたが、ずばりと、
「古谷からの借金はいくらあるんだか。」
 儀作はちょっと応答に窮した。肩をもじもじさせてから何か言おうとしたが、下を向いてしまった。
「元金は?」と前村長は無遠慮にたたみかけた。
「その、元金というのは、あれ、なん[#「なん」に傍点]ですよ、あの『荒蕪地』――村長さんが払下げてよこした……」
「ああ、あれか……あの時は君らも随分ぶうぶう言って、俺を悪党扱いにしたっけが、今では見ろ、あのために後藤新平閣下の計画どおりに、実に立派な大東京になったから。いまでは世界第三位の大都市さ。さすがに閣下は先見の明があったよ。実にえらかった。総理大臣にはならなかったが、総理以上の総理の貫録はあった人物だ。あの人の大計画を成就させたについて、俺どももこれ、ちょっぴり功労があったかと思うと、東京サ行って、まるで西洋みてえな丸の内なんちうところドレエブしてみろ、いい気持なもんだぜ。」
 そこで儀作は永年胸のうちにくすぶっていたものを吐き出した。
「でも、あれですね、村長さん。俺ら、川の水ながれるところまで高い金を出して買わされて、その金で東京おっ立ててみても、これ……。それに、あれです、いくらあの川ンとこを測量してみて『買い上げ』てくれと請願しても、村長さんはちっとも、てんではア取りあげてくんなかったし……」
「冗談いってら、あれは君、ちゃアんと俺は村長の職務引き渡しすっとき、後任へ話しておいたぜ。あれをまだ実行せんのかい、怪《け》しからん奴じゃ。事務怠慢にもほどがある。」
「俺はもう請願するたびに面白くねえ思いするばかりだから、あっさり諦めてますがね。」
「うむ、まアそれもそうだな。人間、なんでも諦めが肝心だって、古人も教えているからな。」
「でも、村長さん、あの時の五十円が、いつか二百円になってますぜ。」
「放っておけば当然……だが君、そう言っちゃなんだが、あの頃出来た君の娘も、いつか十七八になってやし
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