俺がついて番しててやる!」
さぶちゃんが言った。
もう学校は遅れようとしていた。誰一人通るものがなかった。隣村に下宿している一人の先生――それさえもう通ってしまったに相違ない。真っ直ぐな道を見渡しても、誰もやって来るものがなかった。
圭太は死んでもいいと思った。
「そら、こん畜生!」と言ってさぶちゃんに再びステッキを食わせられた瞬間、彼は腰に力を入れ、両脚を踏みしめ、しっかりと胸に鞄を抱き、右手だけをやや水平に差し伸べて、そして一歩踏み出した。
――みんなが渡るんだ。俺にだけ渡れないということはあるまい!
だが、二歩、三歩――もう駄目だった。眼の前には、長い長い糸のような欄干が、思いなしか蛇のようにうねうねして伸びている。その前後左右、また上下は、渦巻く青い流れであり、無限の空間である。糸――どこまでつづくか分らぬそのたった一本の糸のみが、自分を支えてくれる、そして自分の行かなくてはならぬ道である。
彼はふらふらとして、そのままぺしゃんこと、欄干へ蟹《かに》のようにへばりついてしまった。
「こら、臆病奴!」
「野郎、突き落せ!」
「突き落せ!」
実際、圭太の片足へ腕白どもの手が何本か、かかった。へばりついた手をひっぺがそうとするものもあった。
だが、圭太はその時立ち上っていた。さぶちゃんやその手下のものを払い退けるようにして再び渡り出した。
彼はもう前後左右も、青い渦巻く流れも、大空も何も見なかった。眼をつむるようにして、足許だけ――ほんの自分が踏み出す四五センチ先ばかりしか見なかった。
ふらふらと定めない彼の足は、五歩、六歩と行くうちに、自然に調子が定まり、しかも、見よ! だんだんそれが速くなって、ほう、駈ける! 駈ける! 駈け出してしまったのだ、圭太は!
彼が駈けるにつれて、さぶちゃんはじめ、腕白どもも駈け出していた。彼らは意外だったのだ。圭太に駈ける度胸があろうとは誰一人考えていなかったのだ。さぶちゃんはじめ、奴が泣いてあやまるだろうとひそかに期待していたのだった。
圭太はもう夢中だった。顔の形相がすっかり変っていた。彼は何も見も思いもしなかった。そして次第に早く駈けて、流れの中央へまで行った時、彼は朽ちた欄干の上を踏みはずして、風のようにそのまま宙を飛んでしまっていた。
三
気がついた時、圭太は自分の前に、二三の女生徒が立っているのをぼんやりと認めた。
「あら、鼻血が出てるわ……まあ……」
一人の女生徒がびっくりしたような声で言った。彼女は袖から塵紙を出した。そして圭太の顔へかがみかかって、ぬらぬらする鼻の下や口のあたりを丁寧に拭ってくれた。
「怪我したんじゃないの? 圭太さん。」
女の子はしげしげと見守った。
圭太は眼を開いてあたりを見た。それからひりひりする足くびを手で抑えた。
「あら、そこからも血が……」
「大丈夫! これくらい……」
圭太はかくすようにくるりと起き上って、ぱたぱたと埃をたたいた。
橋の中央だった。彼は駈け出したまでは知っていたが、あとのことは全然知らなかった。さぶちゃん達はどうしたのだろう。いまは一人も姿を見せなかった。おそらく誰か先生にでも見つかって逃げてしまったにちがいない。
「鼻血がまだ止らないんだないの……圭太さん、これ詰めておかなけゃ駄目だど。」
女の子は再び塵紙を丸めて、自分から圭太の鼻へ栓をしてくれた。
柔かい手が彼の肩にかかり、頬のあたりへかすかにそれが触れるのだった。圭太は恥しそうに身をよけようとした。
「さぶちゃんにやられたんだっぺ。」女の子は再び言った。「あんたのこと追ってたの見えたもの……あの不良のさぶのこと、校長先生に言いつけてやっか。」
憎々しそうに彼女は言った。他の二人の女生徒も同じようなことを言ってさぶちゃんをけなしつけた。
彼女らはやはり高等一二年の、しかもすでに娘の領域に入ろうとしている生徒達だった。さぶちゃんに姿を見さえすればからかわれ、悪戯されるので、学校の往復にも、なるべく彼を避けて、時間を遅く、あるいは早くしている彼女らだった。ことにその中の一番大きい子――秋野綾子は、さぶちゃんの――その年頃の恋人(?)だった。
ある日、さぶちゃんは母親の小さい懐中鏡を持って来て、綾子や、その他の大きい女生徒が何気なく塀などによりかかっているところの足許へそれを置いて歩いた。それを知った女生徒は、この思いがけない悪戯に真っ赤になって逃げ出したが、綾子は運悪くも、その一人に属していた。
「綾子の奴、もう……てやがるんだ! あっははっはあ……綾子の奴!……」
綾子は泣き出した……。
その綾子だった。それを知っていた圭太は自分もちょうどそうした生理的現象を見た直後だったので、綾子をそれほど近く自分の直ぐ眼の前に見
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