は汗と埃りにまみれながらも太陽の如くかがやいていた。負けた人間のそれは瀕死の病人のように蒼ざめて、秋の木の葉のようにぶるぶるとふるえていた。
 仙太は例の五円のぼろ札を手づかみにして突っ立っていたが、容易に売場へ近づくことが出来ないとともに、一方にはその負けた人間の顔が、自分自身の顔でもあるかのように怖ろしくなってきていた。
 ――そうだ、もしひょっとして……たとい運のいい日であったにせよ、一度や二度は負けないとも限らない。負けてこの五円すってしまったなら?……
 女房の尖った顔……否、それよりも納税! 彼はその五円がどんな五円だかよく知っていた。
 仙太はぎょっとして再びかます[#「かます」に傍点]の中へそれを押し込み、地獄へ落ちそうになって危く助かった人間のように、柵へしがみついた。
 その時、次の勝負が始まろうとしていた。五頭の競走馬がスタートの線に並行しようとして、尻や胴を押し合っていた。見ると、その中の一頭は彼の知っている、そして彼のもっとも贔屓《ひいき》にしているタカムラという隣村の地主の持馬だった。
 相手の馬もたいてい知っていた。ただ一頭新しいやつが加わっている。それは見るからに逞しそうな、つやつやした、ようやく五歳になるかならないくらいの、油断もすきもならないといったようなやつだった。仙太はプログラムを見た。外国|擬《まが》いの長々しい読みづらい字がそこに書いてあった。しかし仙太は「なにくそ!」という気がした。絶対的にタカムラのものさ! 畜生、生命《いのち》張ってもいいや、彼はふらふらと柵をはなれて馬券売場へとんで行った。が、何ということだ! もう売場は閉まっていた。彼は汗びっしょりで、握りしめた五円札を拳ごと突き上げ、誰か一枚でもいいから譲ってくれないか! と叫ぼうとした。
 が、そのとき、合図とともに五頭の馬はスタートを切っていた。喊声は地をゆるがして起った。半周にしてすでにはやく他の三頭の馬は二三メートルも引き離され、タカムラとテルミドールとのせり[#「せり」に傍点]合いになった。
 ――タカムラ!
 ――テルミドール!
 声援は嵐のようだった。タカムラはテルミドールを抜いた。と思ううちに半馬身ほど抜かれ、さらにずっと抜かれるかと見るまに、反対に半馬身先に立つ――と思うと……まるでシーソーゲーム。――だが、最後の三周目だった、タカムラはとうとう断乎として相手を抜き、疾風の如くゴールイン!
 仙太は狂めく嵐の中に、夢中になって何度か躍り上り、涙を流してどなりわめいた。付近にいた何人かの人の足を踏んで、手ひどく抗議されなかったら、彼はもっともっと狂っていたことだったろう。
 やがて彼は我にかえった。現金引換所では十円札や百円札が広告のビラのように引掴まれた。
 ――ああ俺は? 俺は?
 仙太はぽかんとしてしまった。一万円ばかり吹っ飛ばしてしまったような気がした。その時、もしもしと言って肩を叩くものがある。誰かと思って振りかえると、それは知った顔ではなく、どこかの――おそらく東京からでもやって来た立派な紳士だった。
 ――失礼だが、この金時計買ってくれまいかね。僕はね、今日運が悪くて五百円ばかりすっちまったんだ。東京へかえる汽車賃も、子供らへ買って行く土産代も、何もかも、本当に一文なしになっちまったんだ。実に弱っちまった……。
 紳士はつくづくと悲観した。
 ――これ、君、鎖とも五円でいいよ。じつは買う時は八十円したんだがね。天賞堂の保険つきだから確かなもんだ。つぶしにしたって三十円――いや五十円はある。なにしろいま地金の騰貴している時だからね。この町の時計屋へ持って行ったって三十円は欠けまいと思うよ。君、僕を助けると思って取ってくれないかね。
 紳士はどっしりした金時計と鎖とを仙太へ突きつけた。びっくりして見つめた仙太の眼は、夕陽にかがやくその山吹色のためにくらくらと眩めいた。
 ――弱ったな、僕はこの汽車で帰らないともう汽車がないんだ。あと十分しかないんだが……じつに弱っちまったな。
 仙太は五円のぼろ札を出して金時計を受取った。タカムラに張りそこなったやつを、この金時計――降って湧いたような――で取りかえそうとふと考えたのだ。それにまた立派な紳士が五百円もすってしまって家へかえれない! さぞかし彼の家にも、自分の女房のような口喧しい細君が、神経を尖らして待っているのであろう。
 紳士は五円を受取ると丁寧に礼を言って、どこかへ去って行った。
 仙太は重い金時計を懐中へ押し込んで、再び柵のところへやって来たが、しかしもう馬の興味は起って来なかった。タカムラが、ひいきの馬が、みごとに勝ったんだ! それでよかった。これからまだ少し時間もあるから、この金時計を塚田屋へ持って行って金にかえよう。
 塚田屋というのは
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