に大事なお能のある前には、ビフテキを二皿も三皿も平らげるということを聞いた。
すべて、歌う前には動物性の油は咽喉によいが、植物性の油はよくない。テンプラなどを食べた後は声が出ない。或る義太夫語りは或る地方に行って、初日の日にテンプラを食べて出演したため声を悪くして、初日を滅茶々々にしたという話しがある。このテンプラの話しも唄う直ぐ前のことで、時間を経てば差し支えないと思う。
また、私の経験によると、林檎のようなもの、レモンのような柑橘類の少し熟したものを食べると、声のよく出ることがある。それも人によって違うかも知れぬが、多くの場合一寸酸味のあるものはよいようであるが、鮨などはあまり食べない方がよく、酢は殊にいけない。そして、声を出すのに大切なことは、胃を悪くしないことである。私は唄う前には決して食物をとらない。たとえ食べても、腹八分目にしておくのである。重ねていうておくが、この食養生は唄う直ぐ前のことである。
少し話しが専門のことになったが、普通の婦人たちが話しをする時も、なるべく美しい声を出して貰いたいと思う。近ごろの若い婦人はかなり音楽的な声や言葉になって来たところもあるように思う。婦人が夫を慰めるのは、あながち、容貌とかお化粧だけにあるのではなく、これは私の音に生活しているためかも知れぬが、声や言葉にもあると思う。夫が疲れて帰って来て、優しい言葉や声で慰めて貰えば、夫婦喧嘩は起こらないだろうと思う。
言葉はただ目で文字を読んだ感じだけでなく、耳で聞いてもいい感じの言葉を用いたいものである。普通人と対座する時でも、なるべく言葉や声によって、よい感じを与えるようにしたいと思う。それには、お互に婦人に限らず、美しい声と美しい言葉とを遣うようにしたいものである。特に女性の優しさというものは声と言葉にあるように、私は思っているのである。
底本:「心の調べ」河出書房新社
2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「垣隣り」小山書店
1937(昭和12)年11月20日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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