声と食物
宮城道雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妓生《きいさん》の
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私の経験から歌についていうと、言葉と節とが調和する時と、しない時とがある。従って、外国の歌を日本語に訳した際に、訳され方によって、音と言葉とがあっていないような気がする。殊にオペラなどにおいて、そうした点に無理なところがあるのを感じるのである。そこへ行くと、長年聞き馴れた邦楽は言葉と節とがよくそぐうているような気がする。その最もよい例は義太夫であるが、ただ、現代の言葉と違うために、今の若い人にはその言葉や音の味わいが直ぐわかるかどうか――恐らくわからないことが多いと思う。
義太夫は関西に生れたもので、総てが関西語である。これが東京の発音そのままで語られたら、一つの漫談のたねになることだろうと思う。
現代は交通が便利になって、土地が狭まったようであり、そのため、その土地特有の民謡とか何々音頭とかが沢山出来ていても、純粋にその土地を踏んだことのない人が作ったりする。それはその土地の風景を歌に詠み込んで、一般の人に歌いよいように作曲しているので、別に地方色を現わすのが目的ではないから、それはそれとしてよいが、交通の不便な時代は隣り国といっても遠いことになるから、その土地だけの言葉やその土地の感じを写して自然に生れた民謡が多いので、その土地と曲とがしっくり合っている。
また食物などによって、その国々の声が違うように思う。その訳は、私は長く朝鮮にいて妓生《きいさん》の声が非常にいい声だと思って聞いていたが、それは内地流にいえば、錆があるとでもいうか、声が少しかすれたような所があって、非常にいい声である。
それは、朝鮮の人は唐辛子を非常に沢山食べる。副食物のうちで一番大切な漬物の中に必ず入れる。その上、気候が寒いので、オンドルで部屋を熱くして、唐辛子を食べて寒さを凌いでいる。従って辛いもので、咽喉を刺戟する所為か、声の中に空気の交ったような少しかすれた声が出る。その声がまた何ともいえぬ味があるのである。
それと比較して、欧州人の歌うあの綺麗な声は、肉食をしているためであると思っている。それで、声楽家の三浦環女史は歌う前にはいつも、ビフテキを食べられるということを聞いた。また私の奉職している音楽学校で、観世流の家元とよくお目にかかることがあるが、観世氏は非常
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