、寒い方へ向って習った中の一番むずかしいものを、百篇とか、千篇とか繰返して弾く。そして手が冷たくなると、反対に水をつけてまた弾きだす。しまいには指から血が出るようなこともあった。
 師匠がきびしかったおかげで、私は十三歳の年に、師匠の免状を許された。しかし私としては、これから本当の勉強をしたかったのであるが、もともと家が裕福でない上に、父が事業に失敗して朝鮮へ渡って行ったが、また運悪く朝鮮の田舎で賊に襲われて、重傷を受けた。私は、已むを得ず十四の年に朝鮮へ行くことになったが、途中玄界灘で海が荒れて、船の中でおばあさんと心細いおもいをした。
 仁川へ行って見ると、父の身体がまだはっきりしないので、結局私の細腕で箏の師匠をして、一家を支えなければならなくなった。
 しかし年がいかないので、はじめはあまり習いに来る人もなかった。しかし一生懸命に教えている中に、半年程経つと、人が学校の下の少年先生と言うようになった。
 お弟子も大分来てくれるようになり、私は昼間は箏を教えて、夜は鳥なき里のこうもりとでも言おうか、私の下手な尺八をおじさん達に教えていた。
 ところが年がいかないせいでもあったか、昼間の疲れが出て、夜になると教えている中に、居眠りをしてしまう。しまいにはみんな怒って来なくなったりして、また謝りに行って来て貰ったこともあった。こういう中にも、私は箏をもっと勉強をしたいという心持は変わらなかった。
 朝早くみんながまだ寝ている中から起きて一人で箏の練習をしていた。
 私の居た処は、小学校の直ぐ下で、表は広い草原であった。朝鮮へ来て間もなく秋が訪れて、その草原からはいろいろの虫が聞えはじめた。
 また夕方になると、直ぐ上の空の方を雁がたくさん啼きながら通って行く。
 私は表へ出て、それをじっと聞いていると、内地のことが想い出されて、師匠は今頃どうして居られるか、師匠に会いたいなと思うのであった。
 はじめての朝鮮の冬は、身にしみて寒かった。卵が凍って殻を割っても、お膳の上でころがったり、なっ葉の漬物を噛むと、シャリッと音がして、歯にしみわたったり、蜜柑なども噛むと音がした。火箸のような金のものを持つと、手に吸いつくようになる。
 また夜眠っている中に、自分の息が、布団の襟に凍りつく。窓硝子へ部屋の中の水蒸気が凍りついて、さわってみるといろいろの形の小さい粒が、指先に触
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