私の若い頃
宮城道雄
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(例)※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]
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私は七八歳の頃、まだ眼が少し見えていたが、その頃何よりもつらく感じた事は、春が来て四月になると、親戚の子や、近所の子が小学校へ上ることで、私も行きたいが眼が癒らない。親達は気やすめに、学校用品を一揃い買ってくれたが、私はその鞄をかけて、学校へ行く真似をして一人で遊んでいた。眼を本につけるようにして、字を教えて貰ったこともあった。またおばあさんに時々学校の門へ遊びに連れて行って貰ったが、中でみんなが元気よく体操をしたり、遊戯をしたり、また唱歌を歌いながら、遠足に出かけたりするのを聞いていると、急に悲しくなって学校の門をつかまえて泣いたことが幾度もあった。
九歳の時、一番最後に診て貰った眼のお医者様が、この子の眼はもうどうしても癒らない。今後もよい医者とか薬とかいわれても決して迷ってはならないと、私のおばあさんに言われているのを聞いて、私はもう胸が一ぱいになった。今日こそは眼が治ると思って、楽しんでいたのに。
私はその頃、神戸に住んでいたが、その九歳の年の六月一日に、兵庫の中島※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]の許へお弟子入りをした。師匠が手を取って、最初に教えられたのは「四季の花」であったが、その唄い出しの“春は花”という節の箏の音色に、私は幼いながらも、何か美しいものを感じた。
箏を習いはじめると、昨日よりは、今日、今日よりは明日と言うように、何か希望がわいて、眼のことなど忘れて心が明るくなって来た。しかし、眼の方は何時の間にか明りも見えなくなっていた。
師匠はきびしく、盲人は記憶力が肝腎である、一度習ったことを忘れたら、二度とは教えてやらないと常に言われた。
ところが、私が三味線の本手の「青柳」と言う曲を忘れた時、ひどく叱られて忘れたのを思い出す迄は、御飯も食べさせない、家へも帰らせないと、留めおきをくった。ところが不思議なことに、お腹がすいてくると頭がさえて、忘れたのもつい想い出すのである。
また寒稽古といって、寒中に戸障子を明け放して
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