十歳から十一歳の頃に、眼が全く見えなくなってから、箏の音色がほんとうに分ってきたようにおぼえている。
 私の眼が見にくくなったのは、二十歳前後からであった。それ以前の子供の頃は、眼が悪いとは思えないほど普通であったらしい。みんなが、卵に目鼻のような大したお子さんだなどと言って可愛がってくれたが、それもつかの間で、だんだん地がねが出て、私より二つ年上の捨吉という兄弟子といたずらを始めた。紙で蛇のようなものをこしらえて、先生の家の二階の手すりからぶら下げて、下を通る女中をびっくりさせてひどく叱られたこともあった。しかし、箏や三味線の練習は怠らなかった。それでも箏の組唄や三味線の本手などというややこしい曲は、よく忘れて始終叱られていた。
 この老先生が亡くなって、私は三代目の先生にも習った。年を取れば取るほど、師の恩を感じるもので、私は四年ほど前に兵庫県の和田山という所へ演奏に行ったが、それは今、後をついでいられる四代目中島※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2−13−7]と一しょに演奏することを懐しく思ったからである。
 私は東京へ出て来てか
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