すかに低いものであるが、それを私どもの耳ははっきりと聞くのである。すると不思議なことに、それから二三日中の間に必ず天気が変わる。つまり私どもの耳は天気予報の役目も務めるわけで、近頃は警視庁なんかでも、騒音ということを非常に喧ましく取締っているようだが、また事実騒音も聞き方によっては非常に癪に障るものであるが、しかし音の世界に生きる私どもは、波の音を聞く感じを以て電車の音を聞く時、街の騒音にもそこに一脈の愛《いと》しさを覚えずにはいられないのである。
 やがては、誰しも騒音も何も聞こえぬ所へ行かねばならぬのだから、せめて生きている間は、騒音でも何でも聞こえることに感謝しなければならぬと思う。
 それが、音の世界に生きる私共の――少くとも私の「こころ」である。

 先天的の失明でなかったから、私には色というものの記憶が少しはあって、作曲するにはやはりその色を思い出す。はっきりは出ないが、何かやはり眼に浮かんで来るものがある。それと音とが一緒になるのである。どうといって具体的にはいえないが、音にもやはり色はあるもので、あの西洋の作家なんかでも、ドレミファをそれぞれ自分の頭の中でいろいろ勝手に色を出している人があるそうだし、極く普通に黄色い声などというのもそれであると思う。
 自然の音は、私共にとって最も親しいものである。風の音、雨の音、虫の音、小鳥の囀る声、何一つとして楽しくないものはなく、面白くないものはない。
 同じ風でも、松風の音、木枯の音、また撫でるような柳の風、さらさらと音のする笹の葉など、一つ一つに異った趣きのあるものである。
 私は雨の音が殊に好きである。とりわけ春の雨はよいもので、軒から落ちる雨だれの音などきいていると、身も心も引き入れられてしまうような感じがする。
 虫の音にも、まつむし、鈴虫、くつわむし、それぞれ趣きがあってよい。秋の夜長を楽しませてくれるこれ等の小音楽師達に、私は心からの感謝を捧げたく思う。
 私はまた、小鳥が好きで、都会の中に住んでいると、自然の森や林で自由に囀る鳥の音を聞かれぬことは淋しい。私は作曲に感興が湧いて、自然の音にひたりたいと思う時などは、いても立ってもいられない程、懐しい思いがする。
 自然の音はまったく、どれもこれも音楽でないものはない、月並な詩や音楽に現わすよりも、自然の音に耳をかたむける方が、どれだけ勝《すぐ》れ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮城 道雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング