、それが長靴履いて、すつぽり外套を着て居る。尤も婦人が雨の着流しの外套がありつこがないから、誰かの借物でせう。それを着て頭から頭巾を冠つてしまつて、そして無論長靴ですから、お尻はすつくり端折つて居る。側の人は随分あの女の風姿は何と云ふのだと申すそうですけれども、競馬場の中では決して人は笑ひませぬ、咎めるだけの余裕がないのです。気違ひ共に服装の云々はある筈ない。
あの風姿を気にするのは本当の競馬好きぢやない。雨が降つて馬券が買ひに行けぬの、競馬を見ずに人の後に這入つて腰を掛けるのと、雨を避けてしやがんで居るのは本当の競馬好ではない。だから競馬場ではさう云ふ風をして居る方が順当ですな。
競馬の広告に付ては、総て何が一番広告が行届かぬと云ふても、競馬ほど行届かぬものはありますまい。と云ふのが競馬のあるのを、此方から探して行くのですから、只公認競馬でも何でも新聞に一寸出て居るだけでせう。草競馬の方は幾らかプロなんかも出してやつて居りますけれども、私等が一時は草競馬迄行きましたがね、けれどもあら、こんな所にあつたのかねと云ふ場合があります。丸で知らずに居ることがあります。他のものと違つて競馬場ほど……色々競馬場の悪口はありませうけれども……御客の不便を顧ぬ所はないでせう。現に雨が降つて歯の附いた下駄がいかぬので、それに和服の人が多いから皆苦心する。又私等商売柄洋服を着ない、それに私の洋服は映らぬのです。前に競馬に行く為に洋服を作りました。映るにも映らないにも、余程無恰好です。家内やら子供はお父さんもう洋服着て行くなら、私一緒に行かないし若しも一緒に行つても別々に居ませうよ。見理ないから……、と云ふわけ、競馬場でも笑はれますよ。あれや小南や、服の映らぬ人ねと云はれるから雨の降つた日だけ服着て行つて居つたのです。去年の秋でしたかね、去年の秋は雨が降りましたからね、此雨では着物では仕方がないから服を出して呉れと云ふた。所が家内が二円で屑屋に売つちまひましたと云ふ、拵へる時は六七十円掛つた服でそれをたつた二円で売つてしまつた。
またクラブに対する不平は、御客の方から云はしますと、第一番の請求は二百円で制限してあるのが一番非道いです。よつて今迄の馬券法の時分には十人の中で三四人もまあ大袈裟に云えば、自殺するとか、身代を漬すと云ふ人があつた代りに、一人や二人成金が出来たりしましたが、今度の此方法でやられたならば、全部競馬ファンは肺結核に罹つたやうなもので、ぢり/\殺されるのです。そんな不服ならば来ぬでも宜いではないか、とクラブの方で云ふでせう。所が、是が煙草好きが煙草の値が上げられたのと一緒で、仮に敷島が三十銭になつても、非道いことしやがると云つても止めることは出来ぬ。矢張りぶつ/\云ひながらそれを飲むのと一緒で、競馬ファンも其通りで、クラブが不親切な残酷な暴利過ぎると云ひつゝ止めることが出来ぬ。それですから総ての人寄せの中で、私に云はせれば一番競馬クラブと云ふものは横暴でせうね、矢張社団法人と云ふのを鼻に掛けて威張つて居るのでせう。
馬も良くなつて来ましたし、騎手も上手になつて来ました。能く八百長八百長と云ふ声が出ますけれども、障碍と競馬速歩には八百長がないにも限りますまいが、駈出には断然八百長がないと思ひます。それでもあんな弱い馬を騎手が十枚も買つて勝つたではないか、八百長だと云ひますが、なあに、騎手の方では馬の調子も知つて居るし、外の馬と比べて、今日の競馬は事に依ると勝つぞと調べが附いて居る。御客の方では何時も勝つた馬でないからあんなものが勝つべきものでないと云ふのが間違つて居る。馬屋筋を調べますと、一生懸命に馬屋筋は穴ばかり探して買ふて居るから大抵得して居ります。能く御客が聞いて居りますよ、騎手なんかに……、番組見せて、騎手は大体は分つて居る。十頭馬が出ましても二つ位目を着けて居る、是と是だ是が出れば十分で是が出れば穴だ、それ位の見当は附けて居ります。御客が皆買ふ馬が駄目で、意外な馬に騎手が目を着ける時がある。
八百長でないのです。それが此競馬の勝つべき馬なんだと云ふけれども、こそ/\厩筋で買ふから八百長と云ふだらうけれども、公然と買つたら、御客もそれに附いてしまふから配当がなくなつてしまふ。それですからこつそり分らぬやうに買ふ。
それから馬主と騎手の云々はあるのです。速いことには今日は馬が傷ついても宜いから出せるだけ出して呉れと註文する、場合に依ると今日は余り責めぬでも宜いよと云ふ。それはあるのです、詰り其日に楽をさして置いて、そして此処と賞金の多い処でひよつこり出さして、それで賞金でも多く取り、馬券も余計買はうと云ふことになる配当が好くなりますからね。
現に去年の七月の中山の競馬で、松緑と云ふ馬を持つて居る人と心易いのですがね、松緑を預つて居る騎手は黒沢文、けれども親爺は乗らぬで黒沢の息子を乗せるのです。初日に部屋に行つて、今日は、松、どうだい、松緑は好きですからね。今日は調子は悪くないな、斯云ふ、彼方が調子が悪くないと云へば宜いのですね、さうして探つて見ると十幾枚松緑を買ひましたよ。黒沢の手で……。それを見たものですから確かだと思つて、彼方に乗り此方に乗りして大分買つた。黒沢の預つて居る部屋で、時分の息子が乗るのですから大丈夫と思つて、十何枚馬券を買つたから、それを知つて私からもやりましたが、だらしのない負けやう。それから馬鹿々々しいから部屋に行つて見た。どうしたんだらう出ない、外れちまやがつたと云つて居りました。其明くる日競馬場に這入る前に部屋に行きまして、昨日は丸で出なかつたがどうしたい。昨日は出なければならぬのに、あんな風になつたんです。あれでは受合ふことが出来ぬ。勿論何時やつたつて受合ふことが出来ぬけれども、と云つて捨てることは出来ぬので、買ふならば余計買はぬ方がでせうと云ふので、黒沢で二枚しか買はなかつた。それが端切りつ放しの第一着になつた。ですから八百長も故ら出来ない。
草競馬は兎に角、公認競馬では八百長ではない。馬の調子で分つてしまふ、それはあの馬に誰か乗つて斯だからどうだとか、あの馬は、三日前から物を食はぬので幾らか体が悪い。さうすると斯云ふ奴が出るかも知れぬぞと云ふのを探し出すのです。ですが速歩と障碍は私は、どうも時折八百長があるやうに思ふのです。詰り八百長がし易いのです。今日は誰某に花を持たしてやらうと騎手同志で義理の立て合をする、駈足ではさう云ふ工合にしやうと思つてもいきませぬ。馬が調子づいて居る、障碍は其前で一寸注意すれば遅れます。
次にクラブの方では、全然興行と云ふ意味は微塵もないのです。
まあクラブの言草は百円や二百円負けて、くよ/\云ふ人が来るところではない。此方は高等遊戯場だ、一日に二百円や三百円づつ負けても差支ない身分の人が遊びに来る所で此処に来て儲けて帰らうなんと云ふのは図々しいと云ふ。一年中大きな馬場を遊ばして置いて、手入して置いて、何万円と云ふ馬が十頭も二十頭も飛出してやる。其中から儲けて帰らうと云ふのは無理だ。理窟は之になつてしまふ。
興行と云ふ意味は丸でありませぬ。併し草競馬は興行式にやります。何でも構はぬ、馬券を余計売つてやる。公認競馬でも馬券を余計売れば宜いのですけれども、掛つて居る人が取敢ず相当な人がやつて居るから、余り急がぬのです。
日本には公認競馬十一箇所、草競馬は百以上もある。公認競馬は皆規則は共通で、只入場料が二円と三円です。東京の方は二円と五円、外に何処も変りはありませぬ。只他の競馬場は幾らか賞金が少ない、何と云ふても目黒が矢張一番宜いでせう。目黒、横浜、大阪、京都と云ふ順のやうです。今度中山が出来ました、併し中山は今の所京都の次位の馬券の売れです。是は益々売れて居ります、東京の人が行きますからね。
今迄の十円馬券の時で、配当無制限の時分には随分ありましたけれども、私は其間にはあれで一寸夢中になつて二年目か三年目に馬券が廃止であつたものですからね、僅に此前の馬券は四五年間でせう。やつて見て余り乱暴になつて来たので止めてしまつたらしいのです。
底本:「日本の名随筆 別巻80 競馬」作品社
1997(平成9)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「グロテスク」
1929(昭和4)年9月号
初出:「グロテスク」
1929(昭和4)年9月号
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2008年7月19日作成
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