がね、松緑を預つて居る騎手は黒沢文、けれども親爺は乗らぬで黒沢の息子を乗せるのです。初日に部屋に行つて、今日は、松、どうだい、松緑は好きですからね。今日は調子は悪くないな、斯云ふ、彼方が調子が悪くないと云へば宜いのですね、さうして探つて見ると十幾枚松緑を買ひましたよ。黒沢の手で……。それを見たものですから確かだと思つて、彼方に乗り此方に乗りして大分買つた。黒沢の預つて居る部屋で、時分の息子が乗るのですから大丈夫と思つて、十何枚馬券を買つたから、それを知つて私からもやりましたが、だらしのない負けやう。それから馬鹿々々しいから部屋に行つて見た。どうしたんだらう出ない、外れちまやがつたと云つて居りました。其明くる日競馬場に這入る前に部屋に行きまして、昨日は丸で出なかつたがどうしたい。昨日は出なければならぬのに、あんな風になつたんです。あれでは受合ふことが出来ぬ。勿論何時やつたつて受合ふことが出来ぬけれども、と云つて捨てることは出来ぬので、買ふならば余計買はぬ方がでせうと云ふので、黒沢で二枚しか買はなかつた。それが端切りつ放しの第一着になつた。ですから八百長も故ら出来ない。
草競馬は兎に角、公認競馬では八百長ではない。馬の調子で分つてしまふ、それはあの馬に誰か乗つて斯だからどうだとか、あの馬は、三日前から物を食はぬので幾らか体が悪い。さうすると斯云ふ奴が出るかも知れぬぞと云ふのを探し出すのです。ですが速歩と障碍は私は、どうも時折八百長があるやうに思ふのです。詰り八百長がし易いのです。今日は誰某に花を持たしてやらうと騎手同志で義理の立て合をする、駈足ではさう云ふ工合にしやうと思つてもいきませぬ。馬が調子づいて居る、障碍は其前で一寸注意すれば遅れます。
次にクラブの方では、全然興行と云ふ意味は微塵もないのです。
まあクラブの言草は百円や二百円負けて、くよ/\云ふ人が来るところではない。此方は高等遊戯場だ、一日に二百円や三百円づつ負けても差支ない身分の人が遊びに来る所で此処に来て儲けて帰らうなんと云ふのは図々しいと云ふ。一年中大きな馬場を遊ばして置いて、手入して置いて、何万円と云ふ馬が十頭も二十頭も飛出してやる。其中から儲けて帰らうと云ふのは無理だ。理窟は之になつてしまふ。
興行と云ふ意味は丸でありませぬ。併し草競馬は興行式にやります。何でも構はぬ、馬券を余計売つてやる。
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