々の宣誓の成就にあたるといふ無智な信念からである。吾々の非暴力の宣誓は、將來の復讐の可能を排斥する。吾々の或る者は、不幸にも、單に復讐の日を延期してゐるかのやうに見える。
 私を誤解してはいけない。私は、非暴力の政策が、その政策を抛棄する時にも、復讐の可能を排斥するとは云はない。けれども、それは爭鬪が首尾よく終結を告げた後では、將來の復讐の可能を最も強く排斥する。だから、吾々が非暴力の政策を追求してゐる間は、吾々は英國の行政者や彼等の協同者と積極的に親善を保つ義務がある。印度の或る地方では、英國人や有名な協同者は歩くのが危險であつたといふ話を聞いた時に、私は耻しく思つた。最近のマドラスの集會で起つた不名譽な光景は、非暴力の完全な否認であつた。議長が私を侮辱したと思つて、彼をその席から引下ろした人々は、自分自身とその政策を辱めたのだ。彼等は彼等の友人であり援助者であるアンドリユース氏の心を痛めたのである。彼等は自分たちの主義を傷けたのだ。若し議長が私を無頼漢だと信じたとすれば、彼はさう云ひ得る立派な權利があつたのだ。無智は憤怒を起させない。非協同者は最も眞面目な憤怒をも耐へ忍ぶやうに誓はせられてゐる。私が無頼漢らしく振舞ふならば、憤怒があるだらう。それはあらゆる非協同者を非暴力の誓ひから解放するに十分であるといふこと、又どの非協同者も私の生活が彼を誤つた方へ導きつつあるのだと考へても正しいだらうといふことを、私は承認する。
 かかる制限された非暴力の養成すらも、多くの場合に不可能かも知れない。人民が何もしてゐないのに、自己の利益を無視してまで、敵に害を與へようと思はぬやうにと、彼等に期待してはならないのかも知れない。さうだとすれば、吾々は、吾々の爭鬪に關して、「非暴力」といふ言葉を正直にさつぱりと棄てなければならぬ。しかし、それだからと云つて、直ぐ暴力に頼つてはならない。それでは、人民は非暴力の訓練を受けたと云ふことが出來ないであらう。その場合、私のやうな人間はチヨーリ・チヨーラ事件の責任を負ふ義務を感じないであらう。限られた非暴力の流派は、尚ほ曖昧のうちに繁榮し、今日のやうな責任の恐しい重荷を負ふ者はなくなるであらう。
 けれども、若し非暴力がその公正と人道の名のために國民の政策として持續されなければならぬとすれば、吾々は文字通りに、且つその精神を酌んで、それを實行
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