方だということでした。爾来《じらい》今日に至るまで、先生の知遇をかたじけなくする動機となったわけです。
鏡花先生は、その私生活においては、大変に人と違ったところが多かったようにいわれておりますが、私などあまりに近くいたものには、それほどとも思われませんでした。何故ならば、先生の生活はすべて先生流の論理から割り出された、いわゆる泉流の主観に貫かれたもので、それを承るとまことに当然なことと合点されるのです。即ち人や世間に対しても、先生自身の一つの動かし難い個性というか、何かしら強味を持っておられた人で、天才肌の芸術家という一つの雰囲気で、凡《すべ》てを蔽《おお》っておられました。その点偏狭とも見られるところもありましたが、妥協の出来ない人でした。しかしその故にこそ、文壇生活四十余年の間、終始一貫いわゆる鏡花調文学で押し通すことの出来たわけでもあり、文壇の時流から超然として、吾関せず焉《えん》の態度を堅持し得られたものと思われます。
先生が生物《なまもの》を食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年のあいだ粥《かゆ》ばかりで過ごされたことが動機であって、そ
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