た、その翌三十日には、加藤子爵の開墾地で同じ虻田村の中の幌萠《ホロモイ》という所に着いて、加藤子爵に会合することが出来た、その日その翌日などは、その附近の植物を採集して、種々の獲物があったが、これも今度の話の主でないから、ズット略することにしよう。
八月三日に加藤子爵の一行と札幌に到着して、山形屋に宿を取った、ところがどういう加減であったか、自分が病気を発したので、一時は折角の思い立ちも、此所《ここ》まで来て断念しなければならぬかと心配をしたけれども、思った程でもなく、翌日は殆んど全快をしてしまった、それから三日ほど過ぎて、六日の日であるが、札幌農学校の宮部博士と、加藤子爵とそれから子爵の随行の吉川真水という人と、幌向《ホロムイ》の泥炭《でいたん》地に採収を試みた、この日は山草家の木下友三郎君も同行せられることになった、ちょっと話が前に立戻るが木下君は、東京にある時から、此度の利尻登山に同行せられるかも知れないという予約があって、同君も他の用を兼ねて北海道に来らるる都合であったから、一同が途中で待合せつつ幾干《いくばく》か日数を費すような訳になったのである。
翌七日にはいよいよ利尻島に向って進行するために札幌を出発して、加藤子爵主従に木下法学士と余と都合四人外に井口正道という人が小樽に着して、色内町の越中屋に一先《ひとま》ず足を休めたが、井口氏は病気を発したので、到頭小樽に残ることになった、余ら四人は即日小樽を出発して日高丸に乗込んだ、元来利尻に行くのには、小樽から北見の稚内《ワッカナイ》への定期航海船に便乗するので、一週間に一回ということであるからして、その船が帰りに利尻に寄港する時、またそれに乗込んで帰るのが普通の順序であるそうだ、海上は至って穏かであった、午後六時頃「増毛」という所に着して、十時頃また同所を出発して、翌八日の午前六時頃、焼尻島に碇を下した、という程もなく、直に同所を出発してまた七時に天売《テウリ》に一時進行を止めて、また北に向って出発した、午前十一時頃であったろうと思う、利尻島の内で、鬼脇《おにわき》という港に着いた、この港は利尻の内で第一の都会といっても宜《よろ》しいのである、それから午後一時二十分というに、いよいよ一行が上陸すべき鴛泊《おしどまり》の港に投錨した、直に上陸して熊谷という旅店に一行は陣取ることになった。
この日は朝からし
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