いて、今年八十八歳のこの白髪《はくはつ》のオヤジすこぶる元気で、夜も二時ごろまで勉強を続けて飽《あ》くことを知らない。時には夜明けまで仕事をしている。畢竟《ひっきょう》これは平素《へいそ》天然を楽しんでいるおかげであろう。実に天然こそ神である。天然が人生に及ぼす影響は、まことに至大至重《しだいしちょう》であると言うべきだ。
植物の研究が進むと、ために人間社会を幸福に導《みちび》き人生を厚くする。植物を資源とする工業の勃興《ぼっこう》は国の富《とみ》を殖《ふ》やし、したがって国民の生活を裕《ゆた》かにする。ゆえに国民が植物に関心を持つと持たぬとによって、国の貧富《ひんぷ》、したがって人間の貧富が分かれるわけだ。貧《ひん》すれば、その間に罪悪《ざいあく》が生じて世が乱れるが、富《と》めば、余裕《よゆう》を生じて人間同士の礼節《れいせつ》も敦《あつ》くなり、風俗も良くなり、国民の幸福を招致《しょうち》することになる。想《おも》えば植物の徳大なるかなであると言うべきである。
人間は生きている間が花である。わずかな短かい浮世《うきよ》である。その間に大いに勉強して身を修め、徳を積み、智《ち》を磨《みが》き、人のために尽《つ》くし、国のために務《つと》め、ないしはまた自分のために楽しみ、善人として一生を幸福に送ることは人間として大いに意義がある。酔生夢死《すいせいむし》するほど馬鹿《ばか》なものはない。この世に生まれ来るのはただ一度きりであることを思えば、この生きている間をうかうかと無為《むい》に過《す》ごしてはもったいなく、実に神に対しても申し訳《わけ》がないではないか。
私はかつて左のとおり書いたことがあった。
「私は草木《くさき》に愛を持つことによって人間愛を養《やしな》うことができる、と確信して疑わぬのである。もしも私が日蓮《にちれん》ほどの偉物《えらぶつ》であったなら、きっと私は、草木を本尊《ほんぞん》とする宗教を樹立《じゅりつ》してみせることができると思っている。私は今|草木《くさき》を無駄《むだ》に枯《か》らすことをようしなくなった。また私は蟻《あり》一ぴきでも虫などでも、それを無残《むざん》に殺すことをようしなくなった。この慈悲的《じひてき》の心、すなわちその思いやりの心を私はなんで養《やしな》い得たか、私はわが愛する草木でこれを培《つちこ》うた。また私は
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