花を開くアヤメでなければ「しほらしや」が利かない。しかしそうするとこのアヤメが果たして真菰の中に生えていてもよいものかどうかの問題となるが、アヤメは元来乾地生で実際水中には生えないから、この点でこの謡は落第する。もしこのアヤメを昔のアヤメ、よく和歌に詠みこまれているアヤメグサ、すなわち今のショウブ(白菖蒲、一名水菖蒲、一名泥菖蒲)とすれば、これは水生植物であるから、マコモにまじって生えていたとてなんら差し支えはないのだが、困ることにはその花はけっして「しほらしや」と謡うことが出来なく、恐ろしく陰気でグロ(grotesque)であるのである。アチラ立つればコチラが立たず両方立つれば身が立たずの俗謡のようなジレンマに陥る。がしかしこのさいはそんな理屈ばった科学的な解釈をよけ、むつかしい見方をせずに、マコモの中でしほらしくアヤメ(Iris 属[#「属」に「ママ」の注記])の花が咲いているとこれまで通り通俗に解し裁判も執行猶予にしておけば、野暮にもならず物騒にもならずにすんで、やはりこの俚謡は情趣的によいことになる。「あんまりにアラを捜せば無風流」。
 潮来《いたこ》町(昔は潮来《いたこ》を板
前へ 次へ
全361ページ中183ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 富太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング