、始めに既に書いたように、その一は実《サネ》を原とする語原、その二はサナカズラを原とする語原となる。今私の知識から妄りに考えた愚説では、それは恐らくサネカズラが古今を通じた名であって、それがナニヌネの五音相通ずる音便によって昔どこかでサナカズラと呼んでいたのではなかったろうかと推量の出来ないこともあるまいように感ずる。宗碩《そうせき》の『藻塩草《もしおぐさ》』「さね木の花」(サネカズラの事)の条下に「さねきさなき同事也」と書いてある。
 サネカズラには美男蔓《ビナンカズラ》の名がある。これにこんな名のあるのはその嫩の枝蔓の内皮が粘るから、その粘汁を水に浸出せしめて頭髪を梳ずるに利用したからである。これは無論女が主もにそうしたろうから、美女蔓の名もありそうなもんだがそんな名はなく、美人ソウの名のみがある。市中の店にビナンカズラと称えて木材を薄片にしたものを売っていたが、これは多分中国から来たもので同国でいう鉋花であろう。すなわちクス科タブノキ属 Machilus の一種で中国に産する多分|楠《ナン》(クスノキではない)すなわち Machilus Nanmu Hemsl[#「Hemsl」は斜体].(今は Phoebe Nanmu Gamble[#「Gamble」は斜体])ではなかろうか。そしてこの樹は日本には産しない。しかしタブノキの材を代用すれば多少は効力がありわせぬか、このタブノキの葉は粘質性でそれを利用して線香を固める。
 上のサネカズラの和名のほかに、この植物には上に書いたビナンカズラとビンツケカズラ、トロロカズラ、フノリ、フノリカズラ、ビナンセキ、ビジンソウなどの称えがある。江州ではこの実の球をサルノコシカケと呼ぶとのことだ。それはブラブラと下がっているその球へ猿が来て腰を掛けるとの意であろうが、それはすこぶる滑稽味を帯びてその着想が面白い。
 このサネカズラの属名を Kadsura と称するが、これは西暦一七一三年に刊行せられたケンフェル(Kaempfer)氏の著『海外奇聞』(Amoenitatum Exoticarum)に Sane Kadsura(サネカズラ)とあるのから採ったもので、これへズナル(Dunal)氏が japonica なる種名をつけて Kadsura japonica Dunal[#「Dunal」は斜体] の学名をつくったものだ。
 従来我国の学者はサネカズラを南五味子といっているが適中していなく、これは Kadsura chinensis Hance[#「Hance」は斜体] を指しているのである。また古くはこのサネカズラを五味子とも称えているが、これも無論誤りである。そしてこの五味子はチョウセンゴミシ(朝鮮五味子の意)で Schizandra chinensis Baill[#「Baill」は斜体]. の学名を有するものである。これはただ朝鮮ばかりではなく我国にも自生がある。例えば富士山の北麓の裾野には殊に多い場所がある。
 玄及《ゲンキュウ》という漢名は五味子(チョウセンゴミシ)の一名であるから、これを『倭漢三才図会』、『訓蒙図彙《きんもうずい》』にあるようにサネカズラにあてるは非である。すなわち玄及はまさにチョウセンゴミシである。

  桜桃

 桜桃は中国の特産で日本にはない(栽植品は別として)一つの果樹であって花木ではない。ゆえにこれを我国のサクラにあてるのは誤りであるにかかわらず、往時の学者はそうしていた。サクラは果樹ではないからこの点でもこれがサクラでないことが分かるではないか。そしてこの中国の桜桃はその花は大して観るには足りないが、しかしその実が赤く熟して食用になる。ゆえに『本草綱目』などではそれを果部へ入れてある。日本ではこれを支那実《シナミ》ザクラと呼んでいる。
 桜桃の実は円くて瓔珞《ようらく》の珠のようだからというので、それで初めは桜といったが、後ちにそれが桜桃となった。また※[#「嬰」の「女」に代えて「鳥」、219−13]桜とも書かれているが、それは※[#「嬰」の「女」に代えて「鳥」、219−13]という鳥がその実を食うからだといわれる。桃はただの意味でそれに付け加えたものである。
 右によれば、桜桃はすなわち桜である。桜桃は支那実ザクラであるから、したがって桜もまた支那実ザクラであらねばならない理屈だのに、これを我国人が日本のサクラの名だとしているのは大変な間違いである。そして元来日本のサクラは日本の特産であるからもとより漢名すなわち中国名はないはずだ。ゆえに日本のサクラは仮名でサクラと書くよりほかに書きようはなく、またサクラを桜と書くのは反則だ。
 桜桃は小樹であるが、しかし相当大きくなるものもあるようだけれども、もとより我国のサクラのように大木にはならない。それでも
前へ 次へ
全91ページ中72ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 富太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング