[#「虫+也」、第3水準1−91−51]柳の詩あり略す又俗諺に昔し此所に大※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]ありて人を害す大師これを悪み給ひて竹の箒もて大滝へ駈逐し玉ふゆへ大※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]の怨念竹の箒に残れりそがゆへに当山の竹の箒を禁ず又駈逐の時後世若此山にて竹の箒を用ば其時に来り棲めと誓約し玉ふゆへとも云ふ並にとりがたし
[#ここで字下げ終わり]

『紀伊国名所図会《きいのくにめいしょずえ》』三編、六之巻(天保九年発行)高野山の部に、この蛇柳の図が出ている。「渓の畔《ほとり》にありいにしへは大蛇ありて妖《よう》をなす時に弘法(大師)持咒《じじゅう》したまいければ大蛇忽ち他所にうつりて跡に柳生ぜり因て此名ありといふ、一説に遠く是を望めば蜿蜒※[#「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−74]娜《えんえんじょうだ》として百蛇の逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《いい》するがごとし因て名づくといふ猶尋ぬべし

[#ここから4字下げ]
夫木抄 正嘉二年毎日一首中
   咲花に錦おりかく高野山柳の糸をたてぬきにして
                  民部卿知家
   吹たびに水を手向る柳かな     米冠
[#ここで字下げ終わり]

と書いてある。
 また同書蛇柳の図の上方に、「我目《わがめ》にも柳と見へて涼しさよ」麦林 の俳句と、「ともすればたけなる髪をふりみだし人の気をのむ風の蛇柳」栗陰亭 との狂歌が記してある。
 昭和三年(1928)三月発行の『植物研究雑誌』第五巻第三号に「じゃやなぎノ名ノ起リ」と題し、久内清孝《ひさうちきよたか》君がこのヤナギについて「此世からさへ嫌はれて深く心を奥の院渡らぬ先に渡られぬみめうの橋の危うさも後世のみせしめ蛇柳や」(巣林子《そうりんし》『女人堂高野山心中万年草《にょにんどうこうやさんしんじゅうまんねんぐさ》』)の書き出しで、いろいろと書いていられる。それへこのヤナギ研究に縁ある白井光太郎博士自筆の蛇柳原稿図も添えてある。
 以前高野山で植物採集会が催された時、その指導者として私も行ったのだが、その折私は同山幹部のある僧に向かってこの蛇柳の由来をたずねてみたら、その答えに「昔高野山の寺の内に一人の僧があって陰謀を回らし、寺主の僧の位置を奪い自らその位に据らんと企
前へ 次へ
全181ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 富太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング