qを携えてきて初めてこれを長崎に種《う》えたとある。すなわち上の寛永よりは少し後ちである。そして右のインゲンマメは Dolichos Lablab L[#「L」は斜体]. を指している。すなわちこれが隠元携帯の本当のインゲンマメである。今日いう Phaseolus vulgaris L[#「L」は斜体]. のインゲンマメは隠元とは無関係の贋のインゲンマメであって、隠元の名を冒しているものであることを承知していなければならない。『大言海』にはこの新旧二つのインゲンマメを一種の下に混説してあって、明かにその正鵠を失している。大槻先生にも似合わないことだ。
今日では淡緑色皮の円いスイカ、楕円形で皮に斑紋のあるスイカが普通品だが、もっと前、私共の若い頃のスイカの普通品のまん円い深緑色皮のものであったが、それがいつとはなしに世間になくなった。そしてこのスイカの種子は大きくて黒色であった。これに比べると今日のスイカの種子は色も違い形も楕円形で小さい。右の深緑色球形のスイカは徳川時代から明治時代へかけての普通品で、小野蘭山《おのらんざん》の『本草綱目啓蒙』にも「皮深緑色ニシテ※[#「襄+瓜」、101−10]《うりわた》赤ク子黒キモノハ尋常ノ西瓜ナリ」とある。岩崎灌園《いわさきかんえん》の『本草図譜』にもその図を載せ、「六七月に瓜熟す皮深緑肉白色※[#「襄+瓜」、101−11]紅赤色子は黒色なり此物尋常の西瓜なり」と書いてある。しかしこの時分でも西瓜の変わり品が幾種かあって、円いのも長いのもまた皮に斑のあるものもあった。そしてその名もいろいろで、例えば白スイカ、木津スイカ、赤ホリ(伊勢赤堀村の産)、長スイカ、ナシキンなどである。また当時皮と※[#「襄+瓜」、101−14]とが黄色でアカボウと呼ぶものもあった。また皮は緑色で中身の※[#「襄+瓜」、101−15]が黄色の黄スイカもあった。また袖フリという極く小さい西瓜もあった。
中国人は常に種子を食する習慣がある。すなわち歯でその皮を割りその中身の胚を味わうのである。食べ慣れないとなかなか手際よくゆかない。それにはその種子が大きくないと叶わんので、中国では特に種子食用の西瓜がつくられていると聞いたことがあった。
ギョリュウ
日本へ昔|寛保《かんぽ》年中に中国から渡って植えてある※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−
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