には、もしあの早く咲くカンザクラが少なくも十本でも二十本でも上野公園内に植えられ、同公園に一族の桜花が他の花に率先して咲いてその風景に趣を添えたとしたら、どれほどみなの人に珍しがられることであろうと信じた。
そこでそのとき上手な植木屋に命じて、その一本の親木から接《つ》ぎ穂を採って用意せる砧木に接がせてみた。しかしどうも活着がむつかしくて、やっと二本だけ成功させたので、これを公園へ出す前にまずそれを母樹の傍へ植えさせた。
幸いにこの二本の幼樹がその後勢いよく生長しつつあったが、今日はそれがどうなっているのかと、ときどきこれを思い出すのである。元来当時自分の意見で上のように実行したものであるから、おりに触れてこれを回想するたびに右のカンザクラの親木と児の木とについて心もとなく思っているので、この博物館のカンザクラについて上に述べたような事実があったということをここに書いておくのもせめてもの心やりである。右のことがらはおそらく今日の博物館のお方もご存じないことであろうと想像するから、今ここにそのありし当時のいきさつを書き残しおくこともあながち無益ではなかろうと信ずる。
私は上のごとく博物館に勤めていた当時は、人々を引きつけるに足る珍しい桜を上野公園に栽えて公園を飾り、衆目をたのしますことにつき不断の関心を持っていて、それを実行に移しかけたこともあったのである。
すなわち前のカンザクラもそうであったが、次に日本の東北地方の山に多きオオヤマザクラの苗木百本を、自費で北海道から取り寄せてこれを博物館に献納し、同館内の地へ栽えて生長させたこともあった。私はこのオオヤマザクラを後日上野公園へ出して植え、それへ花を咲かせたら、ふつうのサクラよりは花色の濃い美麗なサクラが公園内に咲いて、公園に遊ぶ衆人はこれを見て珍しがり喜ぶであろう、そして公園を飾り立てるにもいいと思い、右のように実行を始めたのであったが、襲来した大震災のためにそれが頓挫し、また私も震災直後同館への勤めを止めたのでその実行が継続しなかった。
その後まもなく公園が東京市へ移管せられたので、すなわち上流のオオヤマザクラの苗木が博物館内に栽えてある事実と、そのかくした理由とを東京公園課長の井下清君に話し、右の苗木を博物館より譲り受けて上野公園へ出してもらったことがあったが、そのときはその苗木がもと百本もあったもの
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