れを眺めているうちに、わが邦上古にその花を衣にすったということを思い浮かべたので、そこでさっそくにその花葩《はなびら》を摘み採り、試みに白のハンケチにすりつけてみたところ少しも濃淡なく一様に藤色に染んだので、さらに興に乗じて着ていた白ワイシャツの胸の辺へもしきりと花をすり付けて染め、しみじみと昔の気分に浸って喜んでみた。私は今この花を見捨てて去るのがものうく、その花辺に低徊しつついるうちにはしなく次の句が浮かんだ。この道にはまったく素人の私だから、無論モノにはなっていないのが当り前だが、ただ当時の記念としてここにその即吟を書き残してみた。
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衣に摺りし昔の里かかきつばた
ハンケチに摺って見せけりかきつばた
白シャツに摺り付けて見るかきつばた
この里に業平来れば此処も歌
見劣りのしぬる光琳屏風かな
見るほどに何となつかしかきつばた
去《い》ぬは憂し散るを見果てむかきつばた
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なんとつたない幼稚な句ではないか。書いたことは書いたが背中に冷汗がにじんできた。
今から千余年も遠い昔にできた深江輔仁の『本草和名』には、加岐都波太、すなわちカキツバタを蠡実、一名劇草、一名馬藺子等と書き、次いで千年余りも前にできた源順の『倭名類聚鈔』にもまた、加木豆波太、すなわちカキツバタを劇草、一名馬藺と記し、次いでまた九百余年前に撰ばれた『本草類編』にも、加岐都波奈を蠡実と書いてあるのはいずれもみなその漢名の適用を誤っていて、これらはことごとく同属ネジアヤメの名である。
カキツバタを加木豆波太、加岐都波太、加吉都幡多、華己紫抜他、もしくは加岐都波奈と書くのは単にその和名を漢字で書いたもので、すなわちいわゆる万葉仮名である。またさらに同じく漢字をもって書いたものに、垣津幡、垣津旗、垣幡がある。またカキツバタの別名としてカイツバタ、貌吉草《カオヨグサ》、カオヨバナ、カオ花、貌花《カオバナ》、容花《カオバナ》、可保婆奈《カオバナ》、可保我波奈《カオガハナ》があるが、これらは主として古歌に用いられたもので、今日ではただカキツバタの一通名で一般にとおっていてあえて他の名では呼ばなく、ただときとすると略して、カキツと呼んでいることがあるにすぎない。
支那の植物に杜若《トジャク》という草があって、わが邦の学者は早くもこれをカキツバタであると信じた。そしてこの古い考定が今日まで続いて残り、俳人、歌人の間にはそれが頭にこびり付いて容易にその非を改むることができず、したがって俳聖、歌聖と仰がれる人でもみなこの誤りをあえてしているから、今日の人々の作り出す新句新歌のうえにもやはり旧慣に捉われひんぴんとしてこの墨守せられた誤りの字面が使われていて、すなわちこれらの人々には草や木の名の素養がまったく欠けていることを暴露しているのは残念である。私はこのような文学の方面でもその間違いはどしどし改めていくことに勇敢でありたいと思っている。今日、日進の教育と逆行するのは決してよいことではあるまい。
全体わが邦で昔だれが杜若をカキツバタだと言いはじめたかというと、今から九百余年前に丹波康頼の撰んだ『本草類編』であろうと思う。そして同書にはまた、蠡実をもカキツバタとなしてある。次に『下学集』にも杜若がカキツバタとなっている。これでみるとカキツバタを杜若であるとしたのはなかなか古いことである。
この杜若なる漢名を用いたのが長い年の間続いたが、今から二百三十四年前の寛永六年にいたって、貝原益軒はその著『大和本草』でカキツバタが杜若であるという昔からの古説を否定し、あわせてその杜若は筑前方言のヤブミョウガ(ツユクサ科のヤブミョウガではない)すなわちハナミョウガ(ショウガ科)であると考定して発表した。
次いで稲生若水、小野蘭山などの学者が出て、今度は杜若はカキツバタでもまたハナミョウガでもなくこれはヤブミョウガ(ツユクサ科)であらねばならぬとの新説を立てた。そして右はこれら景仰せられた一流学者のしたことでもあるので、その後多くの学者はみな翕然《きゅうぜん》としてその説に雷同し、杜若はヤブミョウガであるとしてあえてこれを疑うものはほとんどなかった。
しかるにその後岩崎灌園がその著『本草図譜』で右先輩の説をくつがえし、この杜若なる植物はアオノクマタケラン(ショウガ科に属し支那と日本とに産し暖地に見る)であるとの創見の説を建てたが、これはけだし一番穏当な見方である。すなわち杜若はかくアオノクマタケランだとするのがまず間違いのない鑑定だと信じてよろしい。
これによってこれをみれば、杜若をショウガ科のハナミョウガに当てた貝原益軒の意見は、それは当たらずといえども遠からざる説ではあれど、しかし益軒の卓見がうかがい知られる。なんとならばこれは杜
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